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〈書評〉

〈書評〉
わたしが少女型ロボットだったころ
石川宏千花・著 

わたしが少女型ロボットだったころ

『わたしが少女型ロボットだったころ』を読んでいなかったころのわたし」
中脇初枝/作家

 どきどきして、ページをめくる手をとめられなかった。
 読み終わったとき、蝉の声がじーんとやかましく響いた。
 わたしはその声にびっくりして、『わたしが少女型ロボットだったころ』を読んでいた間中、蝉の声が聞こえなくなっていたことに気づいた。
 ベランダから見慣れた街を見下ろして、夕焼けの光の中で、この本を読む前と読み終わった今とで、目に映る世界がかわってしまったように思った。それは、単に、さっきまであんなにのさばっていた太陽が雲に覆われ、海からの風に吹かれて、昼間の暑さが嘘のように去っていたからかもしれないのだけれども。

 たいていの本は、タイトルを見れば、だいたいのことがわかる。
 『カラマーゾフの兄弟』とかね。カラマーゾフさんって知らない人だし、日本人じゃないっぽいけど、とりあえず、カラマーゾフ家のお兄さんと弟が出てくる話なんだろうなと思う。少なくとも、中学生のときのわたしはそう思って、読んだ。そうしたら三人兄弟だったので、かなり驚いた。兄弟というからには、てっきり二人兄弟だと思っていた。三人兄弟は想定外だった。
 それでも、やっぱり、『カラマーゾフの兄弟』は外国の物語で、二人兄弟ではなかったけれども、カラマーゾフ家の兄弟の物語であったことはまちがいなかった。
 でも、このタイトルでは、そういう予測が立てられない。そもそも、「わたし」は人間なのか、ロボットなのかもわからない。少女型ロボットとして造られたけれども、「ピノッキオ」が人間の男の子になれたように、今では人間の少女となり、かつての体を、「へんなの」と指差してわらっている「わたし」の物語なのかもしれない。それとも、単に、今は大人の女性型ロボットだけれども、以前は少女型ロボットで、そのころのことを懐かしんで思いだしている「わたし」の物語なのかもしれない。
 タイトルをにらんで、あれこれ考えに考えた挙げ句、暑さのあまり蝉の鳴きわめく昼下がりに、わたしは読みはじめた。

 どきどきして、ページをめくる手をとめられなくなったのは、タイトルが謎めいているためだけではなかった。「わたし」が何者か、なかなかわからなかったからだ。ページを繰るたびに、タイトルの謎を追い、「わたし」が何者なのかを追う緊迫感は、ミステリー小説さながらだった。
 同時に、「わたし」の、「わたし」以外の人の言葉やしぐさの裏の裏まで察する繊細さにはらはらした。そのくせ「わたし」は、自分自身の姿すら見ておらず、自分自身のことには何も気づいていないのだ。
 ページを繰るのがこわかった。だれかのただ一言で、「わたし」は修理不可能なほどに壊れてしまう。どうか「わたし」がこれ以上壊れませんように。祈りながら、繊細すぎる「わたし」の心の動きを追いつづけた。
 大丈夫です。最後まで読めば、謎はすべて解けます。
 読み終わったわたしは、読む前のわたしとはちがって、タイトルの謎も「わたし」の謎も知っている。言葉というものがどれだけその人をさらけ出し、だれかを傷つけ、一方でだれかを救うかということも。
 『わたしが少女型ロボットだったころ』を読んでいなかったころのわたしは、世界中の「わたし」の、今にも壊れてしまいそうな繊細さを忘れていた。
 わたしだって、「わたし」のひとりだったのに。
 そして、その繊細さを思いだした今は、「わたし」が何者であれ、「わたし」が幸せであるようにと、ただ祈っている。どうか、世界中の「少女型ロボット」に、安らぎと幸せが訪れますように。

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