12月5日(木)、教文館ナルニア国でアーサー・ビナードさんの講演会が開催されました。『かいじゅうたちのいるところ』『まよなかのだいどころ』(冨山房刊)とあわせて、モーリス・センダックの3部作の一つに数えられている“THE OUTSIDE OVER THERE”の新訳出版『父さんがかえる日まで』を記念した講演会です。
1983年に福音館書店さんから『まどのそとのそのまたむこう』として刊行されたものの、長らく手に入らなくなっていたこちらの本。今回タイトルからまったく新しくなった新訳には、アーサーさんのどのような思いがこめられているのでしょうか? ご参加くださった方からもお話をききながら、たっぷり2時間半!語られました。
アーサー・ビナード流、翻訳の極意!
偕成社でも、アーサーさんはいくつかの翻訳を手掛けられていますが、アーサーさんの手にかかると、想像以上の時間を経て翻訳ができあがることに、いつも驚かされます。
今回は「それもそのはず!」と納得いくような、アーサーさん流の翻訳の極意をきくことができました。
アーサーさんは単に英語から日本語へ訳をするのではなく、一度原書を「自分のなかにすべて取り入れて、元のテキストがなくてもその話が語れるくらいまでに」なってから、はじめて訳にとりかかるのだそうです。そのように自分のなかにとりこむ過程で、原文と絵の間にある隙間をみつけたり、おちている言葉をひろったりして、あらためて原書の物語を、今度はアーサーさんの日本語でつむいでいくのだとか。
「原書という地図のある旅が翻訳。でも、地図を信じきったらだめ。一度覚えたら地図はみずに自分で旅をする」。それが、アーサーさんの翻訳術なのだそうです!
さて、そのようにして新しくなった『父さんがかえる日まで』は、以前の訳、そして原書とくらべてみても、そこにはない、多くのことが語られています。アーサーさんはいったい、センダックの”THE OUTSIDE OVER THERE”という地図からなにを読み取ったのでしょうか。
センダックがのこした新しすぎるメッセージ
父が不在でどこか心ここにあらずの母にかわり、主人公のアイダは赤んぼうの妹のお守りをしています。ところが、その赤んぼうは、アイダがよそ見をしてホルンを吹いている間に、ゴブリンに連れて行かれてしまうのです。怒ったアイダは、ゴブリンから妹を取り返しにでかけるのですが……
『父さんがかえる日まで』は、アーサーさん曰く「原書の出版当時は新しすぎた本」。今の方がより本書にこめられたメッセージが伝わる、現実がいまこの本に近づいてきている、といいます。ときにお客さんに問いかけながら、センダックがのこした「新しすぎるメッセージ」へとアーサーさんは導いていきました。
アーサーさんが注目するのは、この本で最も印象的な、赤んぼうをさらう「ゴブリン」の存在です。
いったい、ゴブリンとは何なのでしょうか? アーサーさんの問いかけに、「妖精のようなもの」「トロルのようなもの」と答えた方もいましたが、なかには「自分の中にあるもの」と答えた人も。自分は愛情をもっている人に対して、誠実に接していると思っていても、実はそうではない部分も持ち合わせている。そこの隙間に入ってくるのがゴブリン–––– そんな核心をつくような意見がでると、話はどんどん盛り上がっていきました。
アーサーさんはいいます。もしかしたら絵本の中のアイダと赤んぼうは本当の意味でつながっていなかったのでは? 形だけの関係だから赤んぼうがゴブリンにさらわれてしまったのではないか?
そして、赤んぼうの方を向かずにうずまきホルンをふいているアイダのページは、生身の人間同士が直接向き合わず、スマートフォンなどを通してコミュニケーションをとるようになった現代と、重なるところがある–––– と。
人と人が、本当の意味で向き合うこと。原書が出版された1981年当時は、もしかしたらこのメッセージは「新しすぎた」のかもしれません。アーサーさんは、現代という時代だからこそ、この作品の本質をつかむことができるのかもしれない、と語られました。
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アーサーさんのお話を聞き終えて、わたしにとって、ゴブリンとは何なのか? センダックが描きたかったこととは? 今一度、自分の胸に問いかけ、この本の帯にある「あなたは、大切な人と見つめあって歩いていけますか?」というメッセージが心に響いてきました。
以前の訳を読んだことがある方も、新しい読者のみなさまにも、アーサーさんの言葉でつづる『父さんがかえる日まで』を手にとっていただき、それぞれの大切な人を想い、さまざまに感じていただけたら嬉しいです。
改めて、この本を読まずしてセンダックは語れないと実感するイベントとなりました。アーサー・ビナードさん、ご参加いただいたみなさま、夜遅い時間までありがとうございました。
(販売部 髙安・宮沢)