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ドブルーフッチ!降矢ななのおいしいスロバキア

第3回

Kapustnica (カプスニツァ) 酢キャベツのスープ

「ドブルーフッチ!」とは、スロバキア語の「めしあがれ!」です。直訳すると「良い味を!」という感じ。つくった人や食卓に同席する人が、食べはじめる人に向かってかける言葉です。
このエッセイでは、中央ヨーロッパの一国、スロバキア共和国に暮らす降矢ななが、思い出や経験をからめながらスロバキアのおいしいものをご紹介します。
さぁ、みなさま、ドブルーフッチ!


 ブラチスラヴァ美術大学で、私はドゥシャン・カーライ先生の下、リトグラフを中心に版画を勉強しました。私が、はじめてカーライ先生の作品に出会ったのは、絵本の仕事をはじめて6年経った1990年のことです。チェコスロバキアの絵本を研究・翻訳されている関沢明子さんのお宅でした。そこで見せていただいたたくさんの蔵書の中にあった1冊が、カーライ先生挿絵の『不思議な国のアリス』だったのです。こんな絵本があるのか?!と、本に目が釘付けになりました。図鑑くらいのボリュームの本の中には、ショートカットで黒髪のアリスや不思議な生き物たちが、迷路のように入り組んだ空間の中でうごめいていました。「この絵描きさんは、今、ブラチスラヴァの美大で教えているのよ」という関沢さんの声に、ページをめくりながら、この人の下で絵の勉強したいと、その時点で留学を決意してしまったくらい、とほうもない衝撃を受けていました。

 それから1年後の秋に、私は初めてブラチスラヴァを訪れました。カーライ先生にお会いして、留学をさせてもらえるか直談判するためにです。直談判と書くと勇ましいですが、ちょうどその頃、ブラチスラヴァに滞在されていた関沢さんに通訳をお願いしてのことです。スーツケースに、先生にお見せする自分の絵本を入れての欧州ひとり旅。

 ウィーンから列車でブラチスラヴァ入りしたその日は、あいにく体調が悪く、大学入学許可が下りるか否かの不安もあいまって、へこみそうな気分でした。関沢さんとお会いする約束の明日までひとりです。お金の両替や予約していたホテルのチェックインをすませると、すこしベットで横になっていましたが、結局じっとしていられなくて街に出ることにしました。

 はじめて見るブラチスラヴァの印象は、灰色です。スロバキアの一番大きな都市にもかかわらず、大通りを走る車の数も歩いている人もそれほど多くはありません。市電の赤い色も心なしか寂しく見えました。花壇の縁に腰かけてしばらく行き交う人や車を眺めていましたが、その日は朝からまだ何も食べていなかったことを思い出し、食べて元気をだそうと歩きだしました。何か温かいものをおなかに入れたいと思いました。

 ホテルの前の公園に、三角屋根のこじんまりした建物が建っていました。サンルームの中に白いクロスのかかったテーブルが見えたので、思いきって入ってみることにしました。お客はまばらでしたが、清潔な内装のレストランです。席に着くとウエイターがメニューを持ってきました。広げてみると全部スロバキア語。何が何だかさっぱりわかりません。そのとき、私の斜め右の席にひとりで座っていた初老のご婦人の前に、小どんぶりほどの大きさの厚手のガラスのボールが運ばれてきたのです。中は太陽のようにオレンジ色に輝くスープが、湯気を立てていました。ご婦人は、テーブルの上のパン籠からうす茶色のパンを一切れとると、左手でパンをつまみ、右手にはスプーンを持ち、スープとパンを交互に口に入れながら、食事を始めました。小ざっぱりとした身なりの彼女が、パンを片手にスープを飲んでいる姿は、とても潔く、優雅に見えました。私は、ウェイターに目配せし、あれと同じものをと注文しました。

 そのスープがカプスニツァでした。酸っぱいキャベツの漬物をクロバーサや豚肉、じゃがいもと煮込んだスープです。輝くようなオレンジ色は、パプリカの色が油に溶け出していたからでした。私も彼女をまねて、片手にパンを持ち、スープをすすりました。ほどよい酸味の熱い液体がのどをとおって胃の中へとしみていきます。そのスープにどっしりしたパンがとてもよく合い、ほんとうに美味しかった。あのご婦人に感謝です。ただ、ひとつ残念だったのが、私へのスープは白い陶器のしゃれた器に入っていたことです。私が外国人だから、観光客用のきちんとした器にしてくれたのでしょうか。ご婦人のところに運ばれてきた厚手ガラスのどんぶりは、見た目は無骨だけれど、地元の人が普段から使っているような素朴さがありました。私もガラスの小どんぶりで食べたかったな。

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  • 降矢なな

    降矢なな

    1961年東京に生まれる。スロヴァキア共和国のブラチスラヴァ美術大学・版画科卒業。作品は、『めっきらもっきらどおんどん』『きょだいなきょだいな』『おっきょちゃんとかっぱ』『ちょろりんのすてきなセーター』『ちょろりんととっけー』『ねぇ、どっちがすき?』「やまんばのむすめ、まゆ」シリーズ(以上福音館書店)、「おれたち、ともだち!」絵本シリーズ(偕成社)、『いそっぷのおはなし』(グランまま社)、『ナミチカのきのこがり』(童心社)、『黄いろのトマト』(ミキハウス)、『やもじろうとはりきち』(佼成出版社)など多数。年2回刊行誌「鬼ヶ島通信」にてマンガを連載中。スロヴァキア在住。

今日の1さつ

毎日をまじめにコツコツ生きるトガリネズミを見ていたら、自分の日常ももしかしてこんなに静かな幸せにあふれているのかも、と思えました。海に憧れて拾ったポスターを貼ってみたり、お気に入りのパン屋さんで同じパンを買ったり。駅中の雑踏やカフェでふとトガリネズミを見かけそうな気がします。(40代)

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