ふしぎな谷であったのは、なつかしい人たち
春の気配がかすかに感じられる3月の肌寒い日、「わたし」は灰色の空の下、かれ木におおわれた山をずっと歩いていました。
ふと木立がきれたところで、ふかい谷をみおろしたとき……なんとそこだけ、満開の桜が咲いているのを目にします。谷からはかすかに、たのしそうな歌声まで聞こえてくるようです。
さくら やなぁ
さくら とてぇ
さくら ゆえぇ
さくや ちらすや かぜまかせぇ
歌声に誘われるように、谷につながる細い道を歩いて行くと、桜の木のまわりで大勢の人が宴会をしていました。しかも、よくみればそれは、人ではなく、色とりどりの鬼たちです。
なかの鬼に手招きされて、花見の輪にくわわった「わたし」は、目の前に広げられたお重箱をみてびっくり! なんと、それは幼い頃、母親が運動会に作ってくれたお弁当にそっくりだったのです。
そのあと鬼たちとかくれんぼをすることになった「わたし」。「鬼」になって、鬼たちをさがすうちに、ふと自分が追いかけているのは、本当に鬼なのだろうか? というふしぎな気持ちにつつまれます。
こっちの木のかげにかくれたのは、おかあさん。そこの木のうらには、おとうさんがいるような気がするのです。それは、みんな、みんな、もうこの世をさってしまった人たちなのでした。
そうか。みんな、ここにいたのか。桜の谷であそんでいたのか──。