「ドブルーフッチ!」とは、スロバキア語の「めしあがれ!」です。直訳すると「良い味を!」という感じ。つくった人や食卓に同席する人が、食べはじめる人に向かってかける言葉です。
このエッセイでは、中央ヨーロッパの一国、スロバキア共和国に暮らす降矢ななが、思い出や経験をからめながらスロバキアのおいしいものをご紹介します。 さぁ、みなさま、ドブルーフッチ!
2019年に始まり約3年間続いたエッセイ「ドブルーフッチ!」も、この15回を最後に連載終了になります。締めの1本は何について書こうかな……とあれこれ考え、私がはじめて夫・ペテルの実家に行ったときの話にすることにしました。当時はお互いまだ大学生でもちろん結婚はしていません。付き合いはじめて半年くらいの夏のことでした。
3年生の学期末試験が無事終わり、夏休みが始まったばかりの頃、私とペテルは、仲の良い友だち3人といっしょに、大学校舎内のアトリエで大きな絵を描いていました。特に何か目的があったわけではなく、そのときの私たちはなぜか気分が高揚していて、何かをいっしょにやりたかったのです。夏休みは7、8月と長く、学生たちの多くは休みが始まると実家に戻っていきます。しばらく会えなくなる前に何かやろうぜ……。そんなノリで、大きなロールで厚紙を購入。乾いた絵の具や足跡で汚れたリノリウムの床にそれを広げると、ひとりにつき1.5m ×2.5m の紙を2枚と切り分け、それぞれ好き勝手に絵を描きました。
開け放たれた窓から流れ込んでくる夏の空気。筆を持つ代わりに瓶ビール片手で笑い話ばかりしている友だち。大きな紙の上に太い筆で大胆に絵の具を塗りこむ快感。今から思えば、紙なんかではなくキャンバス地にすれば耐久性もよかったのでしょうが、学生だった私たちにお金はなかったし、何よりもそれを長く先まで残したいとかそんなことは全く考えずに、今が充実してさえいればよかったのです。
ただ楽しくて描いていた絵でしたが、描きあがりが近づいてくると欲が出てきます。その夏休みにペテルが個展を予定していた会場に、みんなの絵も展示する案が浮上し、たちまち展覧会のタイトル「ちっちゃな動物たちとスイカ」まで決めてしまいました。
会場は、東スロヴァキアにあるペテルの実家から車で15分の街にある文化会館ホールです。作品展示、オープニングのために、みんなで会場に行く計画が立てられ、せっかくだからとペテルのご両親がみんなを実家に招待してくれることになりました。
そして私は……ペテルとつきあいはじめて数か月の私は、いったいどうすべきなのだろうか……悩みました。たった数か月の付き合いの彼の実家に行ってしまうなんてずうずうしいのではないか? 行って「つきあってます」なんて言うのも滑稽だけれど、言わないのも失礼? しかし、仲間といっしょに大きな絵を展示する喜びは共有したいし、ペテルの両親はどんな人たちなのか知りたくもありました。というわけで、ペテルのご両親には特に言わずに友だちの一人として私も彼の実家におじゃますることに決めたのです。
ペテルと結婚してから何度も往復することになるこの道のりを、そのとき私ははじめて旅しました。ブラチスラヴァ中央駅から特急列車のコンパートメント席に座って東へ7~8時間で、スロヴァキア第2の都市・コシツェに着きます。そこからローカルバスに乗ってさらに東へ約2時間。今では自家用車で行く(約6時間)のが当然になってしまったけれど、当時はウクライナの国境まで10㎞のこの町にはこうやって行くしか方法はありませんでした。バスの運転手さんが停留所ではない場所で知人をピックアップしたり、運行路の途中にある自分の実家に立ち寄って中に入ったまましばらく出てこない……そんなことを乗客はのんびり受け入れている牧歌的な地域でした。
ペテルのご両親とはじめてお会いしたのは、展覧会のオープニング会場だったと思います。彼のお姉さんもいっしょだったような……ちゃんと挨拶したはずなのだけれど、実は、その時の記憶がほとんど残っていないのです。なんてことでしょう! たぶん、極度のストレスを抱えなるべく困難な状況に陥らないよう、私は逃げ回っていたのだと思います。この辺りに日本人が来るなんて珍しいことだから、ペテルの家族はいろいろ話そうと思って楽しみにしていたと思います。ごめんなさい……。
そんな状況にもかかわらず、私の記憶には、ペテルの実家でご馳走してもらったお料理のことだけは、鮮明に残っているのです。たたいて薄くのばした牛肉で、ゆで卵ときゅうりのピクルスを巻き、爪楊枝で肉がほどけないように留めて、煮込んだ一品。「スペインの鳥(Španielský vtáčik)」という名前の料理です。中にベーコンやニンジンを足したり、代わりに豚肉を使ったり、肉の固定に糸を使うなどいろいろバリエーションがありますが、大事なのは必ず中にピクルスとゆで卵が入ることと、薄くのばした肉にマスタードを塗ってから中身を巻くことです。半分にカットしてごはんを添えて、煮汁で作ったソースをかけていただきます。肉の切り口から卵とピクルスが見えて、目にも楽しいし、ピクルスやマスタードの酸味が味に深みを与えてくれるご馳走です。
私は、肉の切り口に並ぶオリーブグリーン色のピクルスと白と黄色のゆで卵を見ながら、末息子の友だちのために特別な料理を用意して待っていてくれたペテルのお母さんの気持ちをじっくり嚙みしめました。
この小旅行の後しばらくしてから、ペテルはお母さんに言われたそうです。
「NANAとつきあっているの?」
どうしてわかったのかとおののく息子に、
「あの後、家族会議をした」と。
息子が外国人、それもアジア人女性とつきあっているということは、地方の小さな町に住む彼の家族にとって少なからず冷静ではいられないできごとだったようです。
そして、結論として、皆でこう納得したそうです。
「ペテルが交通事故にあうよりは、ずっとましじゃない?」
これは、結婚後に彼から聞いた話です。
あの日、大学生の私たちは、ペテルの実家で料理を頬ばりながら、この料理がなぜ「スペインの鳥」という名前なのかを熱心に議論していました。食卓のすぐわきには、レースのカーテンがかかり、観葉植物の置かれた窓がありました。ガラス越しに見える窓の外には、夜の闇が広がっていました。
現在、あの時の友人たちのひとりはブラチスラヴァ美術大学の先生になり、ひとりはコシツェの美術高校の教師をしながら絵本を作っています。もうひとりはコシツェの美術高校の校長先生兼風刺漫画家。ペテルと私は、彼の家族を驚かせたおつきあいを続け結婚し、フリーランスのイラストレーターを生業にブラチスラヴァの近くの町で暮らしています。
あの時の私は、約25年後に自分がこんなふうに暮らしているなんて、思いもしませんでした。これから25年後、私はどこで、何をしているのでしょうか。
みなさま、3年間「ドブルーフッチ」を読んでくださって、どうもありがとうございました。