「ドブルーフッチ!」とは、スロバキア語の「めしあがれ!」です。直訳すると「良い味を!」という感じ。つくった人や食卓に同席する人が、食べはじめる人に向かってかける言葉です。
このエッセイでは、中央ヨーロッパの一国、スロバキア共和国に暮らす降矢ななが、思い出や経験をからめながらスロバキアのおいしいものをご紹介します。 さぁ、みなさま、ドブルーフッチ!
3月半ば、スロバキアはコロナ感染拡大防止のため、緊急事態宣言を発令しました。そして国境は封鎖され、基本的に、国内在住者は国外へ出ることができなくなりました。(5月後半から徐々に規制緩和がはじまり、7月半ば現在は以前のように戻っています。)私も4月初めに予定していた一時帰国をキャンセルしました。あらためて日本は遠い国だと再認識したこの数か月でした。
そんな中、たびたび思い出していたのは、留学中に仲良くしていたエチオピアの友人のことです。彼・アスファウは、私より1学年上で、語学コース期間を含めるともう2年以上も母国に帰らず、スロヴァキアで勉強をしていました。小柄でやせていて、服装もジーンズ生地の上下という地味なものを選び、もの静かに話す人でした。美大の版画工房でときどき顔を合わせて、制作中の作品を私がのぞき込んだりしているうちに、すこしずつ話をするようになりました。
彼は母国で、すでに美大を卒業していること。にもかかわらずスロバキアの美大で1年生から学ばなければならなくなり(理由は不明)、大学院を卒業するまでの6年間+語学コース1年間ここにいなければならないこと。その間、母国への一時帰国はできないこと。エチオピアの実家は大きくて、広い中庭を囲んで部屋のたくさんある造りなのだと、紙に見取り図を描いて説明してくれました。エチオピア語には、私が発音できないような破裂音がいくつもあって、寮の部屋でそれを披露してもくれました。私がきっとびっくりした顔をしていたからでしょうか。彼は困ったような得意なような顔をしながら静かに笑っていました。
私には、母国のことをこんなに愛おしそうに話すアスファウが、7年間一度も一時帰国できないことがショックでした。その頃の私は、念願の留学生活に夢中で、一時帰国なんてこれっぽっちも考えなかったけれど、もし今すぐ「帰りたい」と思えば帰ることができました。ただ「帰らない」だけです。しかしアスファウは違います。その時私は彼を通して、「帰らない」ことと「帰れない」ことの残酷な違いを知りました。
学生寮にはエチオピア人留学生が他に数人はいたようですし、彼には美大に仲の良い友人もいました。先生との関係も良く、地道に版画制作をしていました。しかし大学には、黒人の彼に対して、仲良しをはき違えたステレオタイプのジョークをぶつけるスロバキア人学生も何人かいました。無邪気に投げつけられる不愉快な言葉に、私の方が腹を立ててしまうのに、彼は笑って聞き流していました。さらに、彼には、街中でもいわれのない差別や暴力を受けた経験が、少なからずあったようで、人気の少ない地下道などは避けて歩いていました。
私の留学が2年目に入ったある日のこと、アスファウがふと、スロバキアの銀行口座に一定以上の預金(見せ金)があれば、一時帰国できるのだと言いました。最低ラインは6万円でした。それを大学の留学生課やスロバキアの出入管理局に提示することで、出入国できる書類を手に入れることができるらしいのです。私は即座に「6万円だったら持ってるよ!」と言ってしまいました。それがあればアスファウは一時帰国して、家族や友人(もしかしたら恋人がいる可能性だってあります。)に会って、気持ちをいやして、また帰ってこられるのです。だから、6万円なんて安いもんではないか。私は、そう思いました。
はじめは面食らっていたアスファウも、だんだん真剣な顔つきになってきました。6万円は単に見せ金で戻ってきてから私に返せば良いし、実家はお金持ちのようで(私の推定)、航空チケット購入に関しても問題ないようです。しばらく考えて、彼は、私の提案に乗ることを決めました。アスファウと私、それから仲の良いジョージア人留学生もいっしょに銀行へ行き、彼の口座に6万円を入金しました。書類が整い、出国できることが決まると、彼はエチオピア人留学生の親友とともに私のところに来ました。「何かあったら彼を通して連絡するから」と。そして私に何度も礼を言い、9月に戻ってきたらお金を返すからねと、美大が夏休みに入るとすぐに、エチオピアへ帰っていきました。
*今回の話、1回では食べもののところまでたどりつきませんでした。 次回をぜひお待ちください。いつもより早く、1か月後(8月20日)にアップします。
(つづく)