今回は、おばあさんとクマがワンセットになった(ヤクタイもない)思い出を3つ書いてみようと思う。
1つ目はラジオを聞いていた家人が「おばあさんとアナウンサーのやりとりがおかしくてさ」と教えてくれた話。「そのおばあさん、耳が遠いとかぼんやりしてるとかじゃ全然ないんだよ。でも話がそこに行くと、もうだめなんだ。アナウンサーがこれまた粘る人でさ」家人はそう言って話してくれた。
おばあさんは、樺太(今のサハリン)に住んでいた頃、友だちと連れだって山菜採りに行ったのだそうだ。藪の中をずんずん進み夢中になって山菜を採っていると、近くでごそごそ音がする。てっきり友だちだと思って話しかけたが返事がない。妙に思って顔をあげるとどうだろう。そこにいたのはクマだった。
「あれにはたまげました。ツキノワグマだったからよかったものの、ヒグマだったらおしまいでした」「ほお。さぞ怖かったでしょうねえ……。でも、樺太でしたら、それ、ヒグマだったんじゃないんですか?」とアナウンサー。「はいはい、そうなんです、ツキノワグマだったからよかったんです」とおばあさん。「……あのう、ツキノワグマは樺太にはいないでしょうから、ヒグマだったんだと思いますけど……」「そうですそうです。ヒグマだったらいけません。私は生きてません。ツキノワグマでしたからねえ」「はあ…」
アナウンサーは暫し退却しおばあさんに話を譲ったあと、「ところで、ヒグマだったんでしょうね、ツキノワグマは樺太には……」と頃合いを見計らって食い下がる。「ええええ、そうなんです。ツキノワグマだったからよかったんです。ヒグマだったら私は今ごろ……」おばあさん、同意しつつも同意せず。「ははあ。しかし樺太にヒグマはいない……」「はいそうなんです。ツキノワグマだったから……」
こうして生きていなかったはずなのに生きていた(だって樺太にいるのはヒグマですから)おばあさんの出番は終わったそうだが、このやりとりを自分の耳で聞いていたかったなあと、私は今でも思うのだ。
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2つ目は本物のツキノワグマの檻の前での出来事。
長野のとある小さな公園でベンチに腰かけ、可愛いなあと思いながら、檻の中のクマを眺めていた時のことだ。わりあいきちんとした身なりの眼鏡をかけたおばあさんが手を後ろに結びながらトコトコやってきたと思うと、クマの前で眉をひそめ、ぶつぶつと声をあげたのだった。
「なんだこれは。妙なやつだ。ずいぶんと鼻がとがってること。あれまあ丸々して。これ、お前はいったい何なんだい? ははあクマか。ツキノワグマか……。おかしなやつだ。おいこれ、クマ。ほんとに妙だぞ!」
いきなりだったのと、おばあさんの真面目そうな見かけと振る舞いとのギャップに目がパチクリ。つい居住まいを正し、おばあさんに見とれてしまった。
その10数年後、記憶の中から蘇ったこのおばあさんは、幼稚園の先生に姿を変えて絵本に登場することになった。動物たちに悪口を言って歩いて逆襲されるのだけれど、へこむどころかそれをきっかけに動物たちと仲良しになるという能天気な先生の話だ。
そのおばあさんも言いたいことを言いながら、案外、皆に好かれ、楽しく余生を送ったのではないかしら。
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さて最後は小学2年の頃の私自身の祖母の思い出。
祖母は銀行からもらったマスコット人形を棚の上に並べていた。ほとんどは今はなき北海道拓殖銀行の可愛いクマのマスコット、タクちゃんだったが、端に1匹、あまり可愛くない北陸銀行のポツ目のクマがいた。
藤色に塗られたこのポツ目のクマが、見るたびに頭を手前にして仰向けに倒れているのだった。私はそのたびに直しておいた。けれど直しても直しても、次に見るとやっぱり仰向けになって寝ている。そこである時ついに思い余って祖母に尋ねた。
「おばあちゃん、どうしていつもこうなってるの?」
「え?……じゃあいつも縦にしてたのはあんただったんだね! いたずらだこと。そのままにしとくんだよ」
驚いたのはこっちだ。一体どういうこと? 祖母が仰向けになったクマのお腹をなでながら言った。
「這い這い人形なのに、かわいそうにねえ」
祖母としては、おくるみを着た(人間の)赤ちゃんの背中をなでたつもりだったのだ。
「おばあちゃん! これ、クマだよ! まっすぐ立ってるクマなんだよ!」
「えっ……!」
一件落着。かくして祖母と私は笑いに笑った。
––––ところが(ネットのお蔭で)今初めてわかって、吃驚仰天したのだけれど、そのキャラクターはクマではなくネズミだったらしい。