山極さんの本はこれまでも何冊か読んできた。この絵本に書かれていることは、そのどの本にも書かれていることである。人が同じことを繰り返し語るのには二つ理由がある。一つは「これはゆるぎない真理だ」と確信できるからであり、もう一つは「これは何度でも言っておかなければ、人になかなか理解されない」と思うからである。
真理であるにもかかわらず、人に理解されにくいこと。それを人は繰り返し語って倦まない。この絵本でも山極さんはそれを、それだけを語っている。
「するどい牙も爪ももたないヒトが、世界にひろがっていくことができたのは、共感の力によって、たがいにたすけあってきたからだ」(22頁)という一文に山極さんが言わんとしている「なかなか理解されない真理」は集約されるだろう。
ヒトの種としての卓越した特性は「仲間とたすけあうことができる」という能力にある。にもかかわらずヒトは争い、殺し合う。どうしてなのか。その痛切な問いがこの短い絵本を貫通している。
ヒトが争うようになったのは、農業が始まり、富が蓄積されるようになってからである。どうしてそういうことになるのか、絵本には書かれていないので、少し補足的な説明をする。
ソースティン・ヴェブレンは生産労働にかかわらないにもかかわらず、生産された財に対して権利を主張する人たちのことを「有閑階級」と呼んだ。有閑階級は「種をまかなかったところから刈り取る」人たち、「略奪者」である。だが、ウェブレンによると、古代においては、略奪で財をなす者こそが「最高の地位にいる男子」とみなされた。(『有閑階級の理論』)
進化生物学者のジャレド・ダイアモンドによると、略奪者は農業の発生と同時に登場する。狩猟・採集民は余剰食物を持つことができない。狩りの獲物は次にいつとれるか予測が立たない。だから、狩猟・採取民は飢餓ベースで暮らすことになる。そんな集団では、自分は働かずに略奪するだけの人間には存在する余地がない。狩猟民の集団には有閑階級も略奪者も存在することができない。
しかし、農業生産が行われるようになると、余剰食物という、これまで存在しなかったものが存在し始める。農耕民が生産できるカロリーは単位面積当たりでは狩猟民の10倍から100倍だとされる。つまり、農耕民は単位面積当たりで狩猟民の10倍から100倍の人口を養うことができたのである。これが「労働に従事せず、人に労働をさせることの専門家」の存立を可能にした。ダイアモンドによれば、この「非生産者」とは「族長、僧侶、役人、そして戦士などである。」(『銃・病原菌・鉄』)
山極さんはこのプロセスを要約してこう書いている。
「実った食べものは、すぐには食べきれないので、たくわえるようになった。そのとりぶんのちがいから、ゆたかに食べものをもつ人と、そうではない人が出てきた。
農業は人のくらしを安定させたから、仲間の数もふえたけれど、人数がふえればふえるだけ、新たな畑をつくる土地が必要になってくる。そうして、ゆたかな土地をうばいあうための戦いがはじまった。」(18-19頁)
非生産者は戦争、宗教、政治、スポーツ、学問などの専門家である。リストの最初に「戦争」が来る。彼らは食べ物を生産しないのだが、ある種の有価物を創造してはいるのである。それは「集団的熱狂」とか「宗教的法悦」とか「知的高揚」というようなものである。「われわれは宿敵と命がけの戦いを続けている」という物語でも、「われわれだけに選択的に好感を寄せる神によってわれわれは守られている」という物語でも、「われわれはある歴史的使命を託されてこの世に生み出された」という物語でも、何でもいい。集団の結束を高め、その集団に帰属していることの喜びを与えてくれる物語を持っている集団とそのような物語を持たない集団では、集団として生きる力が桁外れに違う。
穏やかに自然環境と定常的な関係を取り結んで平和に暮らしているが、戦闘の専門家を持たない集団は、アジテーターや預言者や戦士を擁する集団と戦えば必ず敗ける。人類史はそう教えている。非生産者をより多く擁している集団の方が、生産者だけの集団よりも生き延びる力が強いのである。まことに残念なことではあるけれど、そうなのだ。
有閑階級=略奪者は集団を統合させることの専門家である。組織管理によって、あるいは技術開発によって、あるいは共同幻想の提供によって、彼らは集団を統合する。ヒトの卓越した本能が「共感の力によって、たがいにたすけあってきた」(20頁)ことにあるというのは、まさにその通りなのだが、その意味では、有閑階級もまた「共感の力」を生み出す源泉であったのである。
なぜ「共感の力」が「たすけあう」場合と「殺し合う」場合に分岐するのだろう。これはたぶんサイズの問題なのだろうと私は思う。集団がある程度以上のサイズになると、「共感の力」が、身体的な近しさとか親しみという体感レベルから遊離して、「部族」とか「民族」とか「人種」とか「国家」とか、そういう幻想的なレベルに固着するようになるのだ。そして、幻想的なレベルに達したとき、「仲間との共感」は「仲間でないものへの恐怖や憎悪」によって縁どられることになる。
「いっしょにごはんを食べて、ともにすごすことで、心は近づいていく。いっしょにうたったり、おどったり、スポーツをしたりすれば、言葉がなくても気持ちがわかりあえる。
そんなあたりまえのことが、じつは、生命の進化のなかで、ぼくたちヒトが手にいれた、だいじな宝物なんだ。」(30-31頁)
ほんとうにそうだと思う。「いっしょにごはんをたべる」くらいのサイズ感だったら、たぶんヒトは戦争なんか決して始めないだろう。問題はサイズが大きくなってしまったことなのだ。
「身近なふれあいからはじまる、そんな仲間たちのあつまりをていねいにつないでいくことができたら、きっとぼくたちは、もっと平和な世界をつくっていける」(31頁)と山極さんは書く。僕もまったく同意見である。でも、「つないでいくことができたら」という仮定の前で、僕は立ち止まってしまう。どうすれば「つないでいくこと」ができるのだろうか。人種や、言語や、宗教や、生活文化の違いでヒトは「仲間/仲間でないもの」の間にデジタルな境界線を引き、境界線の向こうにいるヒトと「気持ちがわかりあえる」ためには例外的な共感力を必要とするようになってしまった。
境界線を越えて「つないでいく」というのは、そんなに難しいことなのか?と山極さんは僕たちに問いかけてくる。「そうみたいです」と僕は悲しげに答える。仲間との共感を高めるために「仲間でないもの」への恐怖と憎悪を掻き立てるという機制をどうやって解除したらいいのか、その手順が僕にはまだ見えないのです。なんとかしたいんですけれど、まだ見えないのです。
ここまで書いたけれど、いささか悲観的な書評になってしまって、山極さんにはなんだか申し訳がない。さいわい(と言うべきか)、これは「絵本」であって、想定読者は9歳児ということなので、僕のこんな書評は読者には届かないし、さしあたりは届く必要もない。
子どもたちはまず「世界は善意で満たされている」と信じるところから始めるべきだ。僕だってそう思っている。世の中を住みよいものにするためには、ただ「善きこと」を積み増ししてゆけばいいのだ。そう思うところから子どもは始めてよい。でも、そのうちに「そうでもない」ということにいやでも気がつく。そして「悪とは何か」について思量し始め、青春期には「悪を根絶するには」という根源的な問いと格闘して、ずいぶん経って、老境に達した頃に「悪を押し戻す」「悪を希釈する」「悪と折り合う」という技術的な問題を考えるようになる。
この本は「善きことを積み増してゆく」ことに向けて子どもたちを後押しするために書かれている。それは絵本としてはまことに正しいありかただと思う。それでも、思慮深い子どもはきっと「でも、どうしてヒトは豊かになっても戦い続けるのだろう?」という問いにつきあたる。その答えはこの絵本の中には書かれていない。この絵本が求めているのは、子どもが自分でその問いを立てることだからだ。



