詩人の斉藤倫さんが初めて書いた長編『どろぼうのどろぼん』(福音館書店)は、持ち主からも忘れられた物をそっと救い出す、世界一やさしいどろぼう、どろぼんの物語だった。この世の片隅の、小さな小さな声に耳を傾けようとするどろぼんの願いの美しさと奥深さが、牡丹靖佳さんのやわらかで明るい挿し絵と響きあって、どこを開いても気持ちのよいあたたかさに充ちていた。『しじんのゆうびんやさん』は、その牡丹さんと斉藤さんが十年ぶりにコラボレーションをした本なのだ。胸が高鳴る。
主人公は、ガイトーとトリノスという名前の二人のゆうびんやさんである。「道ばたの街灯みたいに、せが、ひょろりとしていた」窓口担当のガイトーと、「鳥の巣みたいに、髪が、ふっさりとしていた」配達担当のトリノス。二人ともとてもキュートなキャラクターで、冒頭からわくわくする。
ある日トリノスから、とうだいもりのじいさんが一度もてがみをもらったことがないことを伝えきいたガイトーが、彼にてがみを届けたいと思いたつ。てがみを受け取る喜びを味わわせてあげたいというやさしい気持ちが書かせたてがみが、すばらしい詩になった。「うみに ふる あめ」というタイトルで、お互いを意識しながら決して手が届かない「うみ」と「そら」の切ない思いを描いている。ガイトーは会ったことがないおじいさんが、とうだいもりをしているという情報から、「そら」と「うみ」について言葉をつづったのだろう。ガイトーは、詩を書こうと思っていたわけではなかった。うけとった人が詩だと感じたことによって、てがみは詩になり、ガイトーは詩人になったのだ。ゆうびんやさんの運ぶ「詩(てがみ)」はさまざまな人の心を打ち、広がっていく。
この世に詩というものが生まれる瞬間に、物語の中で立ち会えるのだ。詩は書こうと思って生まれるのではなく、詩だと感じた人の心が、言葉を詩として確定させる。ガイトーが生み出す詩は、シンプルでわかりやすい。だからこそ暗示的でもある。とうだいもりのじいさんが、「ずっと海を見てきた。ずっと空を見てきた。だが、こんなことは、かんがえもしなかった」と言ったように、詩を受け取った人は、刺激を受けて新しい気持ちを開いていく。ときには詩が「おまもり」になる。
トリノスのいもうとには、「ひみつ」というタイトルの詩が届けられ、いもうとは、母親のことを思い出す。詩には母親のことなど書いていなかったので、トリノスがそれを不思議に思うと、「詩って、書いてあることだけじゃない。書いていないことを、かんがえさせるものなのよ」といもうとは言う。詩は、世界を感じ、思考しながら生きるための言葉なのだと改めて思う。
斉藤さんには『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』(福音館書店)や『ポエトリー・ドッグス』(講談社)といった、物語の中で既存の詩を紹介する本がある。『しじんのゆうびんやさん』は、物語として詩が生まれる瞬間を描いて、詩というものの意義について語った詩論の一冊でもある。
「さぞかし、たいへんなんだろうな。詩、を書くっていうのは」というトリノスに、ガイトーは、「書くのは、そりゃあ、たいへんだけど、いやじゃないんだ。しりもしないあいてにあてているから、なにも気にせず、好きなことを書けばいい」と答える。この言葉に深い感銘を受けたのち、ガイトーが抱えていた事実を後に知って、胸がつまった。
詩として描かれる手紙の言葉だけでなく、物語の地の文章にも、やわらかい光を放つような詩の気配が随所に滴っている。そして物語全体の佇まいもまた、一編の詩だと思う。