人と同じようにできないことに悩んだこと、恥ずかしいと思ったことはありませんか。『ぼくは川のように話す』(原田 勝 訳)は、詩人ジョーダン・スコットの文章に、いま注目の絵本作家シドニー・スミスが絵を描いた作品。吃音症に悩む主人公を通して、ものごとが「なめらかに」できないことに悩む子どもたちを、「言葉と絵のイメージ」で救ってくれるうつくしい作品です。
吃音をもつ詩人の実体験から生まれた絵本
バイデン米大統領や故・田中角栄首相も悩んだ吃音症は、幼少期には20人に1人が経験し、成人になっても100人に1人がその症状をもつと言われています。そのことが原因でからかいの対象になったり、コミュニケーションに不安を感じたりすることで、多くの子どもたちや大人が今も苦しんでいます。
そんな吃音のみならず、人と同じようにものごとが「なめらかに」できないことに悩む子どもたちを、「言葉と絵のイメージ」で救ってくれるのが、作者の実体験をもとに書かれた絵本『ぼくは川のように話す』です。
文章を書いたのは、自らも吃音をもつカナダの詩人ジョーダン・スコット。自身の幼いころの体験をもとに書いた、初の絵本です。この作品で、「障害をもつ体験を芸術的な表現としてあらわした児童書」に与えられる、シュナイダー・ファミリーブック賞(主催:米国図書館協会)を受賞しています。
本のあとがきには、もとになった体験について、このように書かれています。
ぼくがまだ小さかったころ、「口の調子が悪い日」には、ときおり、父がぼくを学校にむかえにきて、川へつれていってくれました。(中略)
ある日のこと、父が、岸を洗う川の水を見ながら言いました。「ほら、あの水の流れを見てみろ。おまえの話し方にそっくりじゃないか」(中略)
川には河口があり、合流点があり、流れがあります。川というのは、永遠に、自分より大きなもの、広い場所をめざして、気負わず、たゆまず流れていきます。ところが、川は流れていく途中でどもることがあり、それはぼくも同じなのです。 (中略)
父が川を指さしたとき、ぼくはそこに、自分にしかわからない恐ろしいものを、言葉にするためのイメージや表現があることを知りました。こうして、父が吃音を自然の中の動きにたとえてくれたおかげで、ぼくは自分の口が勝手に動くのを感じるのが楽しくなりました。
症状のひどいその日、少年は……
その日は、朝から吃音の症状がひどい日でした。
松の木の「ま」は、口のなかで根をはやして、ぼくの舌にからみつく。
カラスの「カ」は、のどのおくにひっかかってでてこない。
少年は憂鬱な気持ちで放課後を迎えるのですが、そこへ、父親が「うまくしゃべれない日もあるさ。どこかしずかなところへいこう」と少年を川へ誘い出します。
そして、川を目の前に静かに隣り合い、彼にこう声をかけたのです
「ほら、川の水を見てみろ。あれが、おまえの話し方だ」
見ると、川は……あわだって、なみをうち、うずをまいて、くだけていた。「おまえは、川のように話してるんだ」
堂々と流れるようにみえる川も、あわだち、なみうち、うずまき、くだけて––––そう、どもっている。その言葉が、少年の心に沈殿していた恥ずかしさや憂鬱な気持ちを、根底から変えていくのでした。
観音開きのページを開けたときの圧倒的な感動
絵を描いたシドニー・スミスは、寡作ながらも、カナダ総督文学賞、ケイト・グリーナウェイ賞、エズラ・ジャック・キーツ賞と権威ある数々の賞の受賞歴があり、本作を含む4作でニューヨーク・タイムズ最優秀絵本賞を受賞している絵本作家です。本作でも、その卓抜な表現力と画面構成により、ジョーダン・スコットの詩的な言葉を視覚的なイメージでふくらませ、読者の胸にうったえかけます。
担当編集者は、シドニー・スミスに以前から注目しており、新作を読んですぐに翻訳権のオファーを出しました。1冊の絵本としての素晴らしさに感動するとともに、自身も小学生のころ吃音に悩まされた経験があったことから、自らの手でこの絵本の翻訳を出したかった、と話しています。
また、訳者である原田勝氏は、当初からこの本に惚れ込み、翻訳エージェントに、日本で出版される際は、ぜひとも自分を訳者として提案して欲しいと依頼しており、今回偕成社では初の訳書を刊行することになりました。
想像をゆたかに膨らませる言葉と、絵のイメージが、少年の心の風景に読者を引き込む絵本です。少年と苦しみをわかちあい、そして最後には、自然の表現力が魅せてくれる新しい景色とともに、穏やかな気持ちで本を閉じることができます。
「おまえは、川のように話してるんだ」という言葉が書かれた観音ページを開いたときの感動は、圧倒的なものがあります。ぜひ絵本そのものをお手に取って、体験してみてください。