まずは事実の確認から。2021年度に学校を病気や経済的理由以外で30日以上欠席した不登校の小中学生は、前年度から4万9000人近く増加し、実に24万4940人だった。言うまでもなく過去最多である。文科省は「コロナ禍での生活環境の変化や学校生活でのさまざまな制限が交友関係などに影響し、登校する意欲がわきにくくなった」などと解釈しているが、本当だろうか。
いちばんひっかかるのは「登校する意欲」のくだり。どうやら文科省は生徒が学校に登校するのは「登校意欲」があるからだ、と言いたいらしい。まさかね。ちょっと考えたらわかる。サラリーマンは「出社意欲」があるから出勤するのでしょうか? そんなわけない。「出勤しないことで生ずるリスク」が怖いから出勤している人のほうがずっと多いはずだ。なら、子どもだって同じこと。学校に通う子は、別に学校が大好きなわけじゃない。「不登校」のリスクが怖いから登校しているのだ。かつての私がそうだったように。
そもそもコロナ禍前から不登校は毎年約2万人ずつ増えていた。義務教育のシステムに、なじめない生徒がこれほどいるとしたら、それはもう生徒個人の問題じゃない。旧態依然の学校やシステムのほうがおかしかったのだ。コロナ禍はそうした事実をいっそう強調してくれたようにも見える。
こういう背景がわかっていれば、本作のヒロインである、小学5年生のるるこの悩みもわかりやすくなるだろう。彼女は学校がつまらない。もっとはっきり言えば、学校が辛い。でも「不登校」を選ぶほどじゃない。不登校が今よりずっと辛いことは知っているから。いろんな子供が居るだろうけど、「登校再開に目を輝かせる子ども」と「コロナ禍前から不登校だった子ども」の中間に、おびただしい「つらい学校にがんばって通っている子ども」が存在する。『ステイホーム』は、そういう普通の子を主人公にした、コロナ禍ならではの物語なのだ。
頭の良いるるこにとって、学校は15分ですむ内容を45分かけて教える場所だ。「せまい人間関係であれこれなやんで、整列したり掃除したり当番したり校歌を歌ったり」させられる場所だ。少しでも変わった発言をすると、いじめの危機にあうような場所だ。るるこがコロナ禍の休校をひそかに歓迎していたり、ステイホームが終わって欲しくないと願う気持ちは、私にも痛いほど良くわかる。コロナ禍の最中にちょっとだけ流行った「コロナロス」という言葉があった。会社にも学校にも行かなくて良いこの快適な状況が、少しでも長く続きますように。それは不謹慎な願いかも知れないが、異常な状況に対する、とても自然でまともな反応だったように思う。
本作で最も多く占めるのは、るること伯母の聖子が協力し合って祖父の家をリノベーションするプロセスだ。このこともまた、学校がつらい子どもにとって何が大切かを示している。それはすなわち「安心・安全な居場所作り」であり、それを実現するための親密な対話である。そうした過程の中で、子どもは自由の感覚を回復し、自発性を育んでいく。
だからるるこが、伯母の聖子の導きで、内心の自由の大切さに気付く場面はとても重要だ。人は心の中では何をしても良い。どんな邪悪で非道な思いつきでも、つきつめて深く考えて良いのだ。この、ある意味で当たり前の指摘にるるこが驚くのは、学校という場所がきわめて巧妙に、子どもたちの「内心の自由」を抑圧し、干渉する場所だからだ。いじめの恐怖が、年功序列が、理不尽な校則が、無意味な慣例を説明なしに押しつけてくる教師が、子どもの心を縮こまらせる。そんなるるこにコロナ禍は、内心の自由を回復するための、またとない機会をもたらしてくれたのだろう。この自由がなければ、真の意味での自発性も主体性も生まれようがない。いつの日か、学校もまたそうした場所に変わっていくことを切に願う。
斎藤 環(さいとう・たまき)
1961年、岩手県生まれ。精神科医。筑波大学医学研究科博士課程修了。病院勤務を経て、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、不登校・社会的ひきこもりの支援のあり方など。著書に『社会的ひきこもり』、『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)、『オープンダイアローグとは何か』、『いじめ加害者にどう対応するか――処罰と被害者優先のケア』ほか多数。