発表する作品が各国で受賞を重ね、今年度の国際アンデルセン賞画家賞を受賞するなど、世界から注目されているカナダの絵本作家、シドニー・スミスさん。『ぼくは川のように話す』『おばあちゃんのにわ』に続く最新作は、自らの子ども時代の体験を描いた感動的な絵本です。3年がかりで完成させたという本作について、シドニーさんにお話をうかがいました。
『ねえ、おぼえてる?』は、ケイト・グリーナウェイ賞を受賞した『この まちの どこかに』(評論社)に続いて、シドニーさんご自身の作絵による作品としては第2作になります。もともと「記憶」をテーマにした絵本をつくるというアイデアから始まったのだとお聞きしましたが、そのテーマを思いつかれたきっかけが何かあったのですか?
以前、ある友人に『この まちの どこかに』を読んでもらったとき、その友人はいくつかの絵をさして、こういうタッチは記憶の中の情景を描くのにむいているのではないか、と言ったのです。どれもわたしの気に入っている絵で、なにかを思いおこさせるような、そして、まわりの絵とは明らかにちがうタッチの絵でした。どこか危うげで、でも心がはずむような小さな絵だったのです。
そう言われてわたしは、記憶というものが人の心の中でどう感じられ、どう見えているのか考えました。記憶はだれもがもっているのに、とても個人的なものです。人はみな記憶をかかえ、海辺で見つけた宝石のように大切にしまっています。でも、それを映像として見せるのはとても難しくて、もしできるとしたら、おそらく絵本という形を借りるほかないでしょう。
この絵本を読んで、思い出というのは、匂いや音や光の感じ、その場にあった布の柄や、人の手のぬくもりといった、感覚的な断片とともによみがえるのだなあ、ということをあらためて感じました。シドニーさんの絵には、それらを呼び起こすものがあります。
親子がふりかえる思い出は、シドニーさんご自身のものだそうですね。実体験をもとにした絵本をつくるにあたっての難しさはありましたか?
この本の制作はほんとうにたいへんでした。記憶というものは、その扉をあけたとたん、中にひそんでいたどの記憶が現われるのか、自分ではコントロールできません。このテーマで行くと決めて、二人の登場人物が思い出を語りあう構成を考えたあと、その思い出にリアリティをもたせ、ほんとうにあったことのように読者に感じてもらうには、わたし自身の記憶を生かすしかないと思いました。そして、いったんそう決めると、自分の記憶を編集したり、作りなおしたりして、別の物語や別の人物を描くことはできないと気づいたのです。
つまり、それまであまり人に話してこなかった自分の過去を語るほかなくなったのです。おかげで、この絵本の制作はとても難しくて苦しい作業になりました。今のわたしを作っているのに、今まで35年間向きあってこなかったできごとを語るのですから。
そのような体験と向きあうのは大変だったと思いますが、その一方で、思い出というのは愛情とも結びついているのではありませんか?
記憶というものは、夢と同じように、ひとつの感情だけで説明できるものではなく、複雑で微妙なものです。ですから、人に伝えようとしても、そううまくいくものではありません。記憶は心の中にしまわれ、いつまでも個人的なものでありつづけるのです。そして、ともにつらいことを経験した記憶は人と人との距離を縮めます。たがいを結びつけ、人生の嵐に耐えて強くなった愛情を、わたしはこれからもずっと大切にしていくつもりです。
40ページほどの作品ですが、味わった物語の豊かさは、1本の長篇映画を観終わったときのようでした。
物語の中で変化していく男の子の表情にもひきつけられますが、とくに終盤、窓の外を見ていた男の子がお母さんをふりかえったときの顔には、ページをめくる手がとまりました。
シドニーさんがこの男の子の表情にこめた、言葉では言いあらわせない感情を読み手が自然に共有できるのは、まさに最初におっしゃったように、絵本という表現ならではのものですね。
わたしは人物の顔を描くとき、あえて読みとれる情報をへらすか、あるいは逆に、複雑で微妙な表情にするようにしています。登場人物が、わかりやすくほほえんだり、顔をしかめたりしていると、読者はたいてい、その人物の心の動きについて、うわべだけの限られた理解しかできないからです。わたしは読者に、登場人物の身になって言葉や絵を理解し、彼らの心の中を読みとってほしいと思っています。そのほうが、作品をより深く理解してもらえるでしょうから。
『ねえ、おぼえてる?』に描かれている笑顔は、ほとんどがたんなる笑顔ではありません。たしかに、最後の場面は喜びと安堵に満ちていると感じてもらいたいし、二人の表情でそれを表現したかったのですが、そのほかの場面では、登場人物たちはみな、言葉にできない思いを語るための表情をしています。
ところで、表紙の少年は、絵本の中の男の子より少し歳を重ねているように見えますね。
たしかに表紙の男の子は少し歳を重ねていますが、とくに何歳という設定はしていません。じつは、わたし自身、過去をふりかえることのとても多い子どもでした。記憶は自分の人生の節目を示すので、わたしにとって、とても大きな意味をもっていました。住む町を変え、家を移り、家族がこわれ、また新しくできて、変化と混乱の多い時期だったのです。今を理解するために、あるいは、親密で信頼できるなにかを見つけるために、わたしの心はいつも過去をふりかえっています。
絵本が完成して、いまどんなお気持ちですか? あらためて、この「記憶」という、とても個人的で、不思議で、そしてわたしたち誰しもにとって大切なものについて、どのように思いますか?
この本は、ひとつの完結した物語としてよい作品になったと思いますが、すっかり満足することはこの先もないでしょう。今となっては、作りはじめるときに抱いていた野心が少し大きすぎたのだとわかります。
わたしは、記憶という不思議で貴いものの本質を描こうとしただけでなく、自分の人生のこの時期がもつ大きな意味の根底にあるものをつかもうとしていました。今は、わたしが立てたその目標は、手のとどかない、決して達成できないものだとわかりましたし、そのことに納得もしています。でも、たやすく表現できないものを言葉や絵にしようとすると、こうしたことはしばしばおこります。作り手はベストをつくし、作品が、そうした測りしれない深みにあるものをわずかでも含んでいることを願うしかないのです。
この絵本がシドニーさんにとってどういうものであるのか、そのことについて、とても誠実に答えてくださってありがとうございます。シドニーさんがそこまで個人的な体験をつきつめたからこそ、この絵本が多くの人の感情にうったえる普遍的なものをふくんでいるのだということもあらためて感じました。
この作品を経たシドニーさんの次作がどのようなものになるのかも楽しみにしています。
翻訳:原田 勝
シドニー・スミス
80年、カナダのノバスコシア州に生まれる。『おはなをあげる』(ジョナルノ・ローソン作)によりカナダ総督文学賞を受賞。『うみべのまちで』(ジョアン・シュウォーツ文)と、初めての自作絵本『この まちの どこかに』により、2作連続でケイト・グリーナウェイ賞を受賞。『ぼくは川のように話す』(ジョーダン・スコット文)によりボストングローブ・ホーンブック賞を受賞。その他の作品に『おばあちゃんのにわ』(ジョーダン・スコット 文)、『スムート かたやぶりな かげの おはなし』(ミシェル・クエヴァス 文)などがある。