冬の長い北国では、それを取り返そうと春がかけ足で過ぎ、すぐあとから夏が追いかけてくる。忙しい。なるべく小さな変化も見逃すものかと五感を総動員する日々。
はるか昔「春がなくなった」のに仰天したことがある。確かに予感させられた日々はあった。なんだか今年は鳥の声があまり聞こえないなあとか、アキアカネが少ないような気がするなどとブツブツ。でもそれは小さな変化だった。ヒトは小さな変化にはすぐなれる。そして蓄積する。あるとき突然大変化となって登場して、私たちを驚かす。
春はもうないのだ、と気づいたことがあった。
1961 年夏、私は北海道を旅した。小さなテントを背負っての旅。卒業後職を得る道東の小さな町。その海岸の草原でテントを張る。朝、そのあまりの騒々しさに飛び起きた。喧噪とはこのことだと知ったのである。鳥の声にたたき起こされたのだった。草原の野鳥の声である。午前3時半であった。次の日も同じ。4日目、とうとうテントをたたんで逃げ出していた。寝不足でぼんやりとし、なんとも始末が悪いのだ。
2年後、職を得たそこが私のフィールドとなった。ほぼ毎日通った。メモをめくると野鳥の声が少ないと感ずる、といった程度のことしか記していない。そうしたある日、かつての面影なんぞ全くない草原になっていることに気づき、愕然としたのである。
1964 年、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の日本語版が出た。そのとき、私は思った。そんな春はやがてくるのではなく、もう目の前にあるのだと。
以来、小さな変化にも敏感になるのだと心に決めたのだった。野鳥のさえずりでたたき起こされるといった幸運に、その後めぐり会ってない。外国を含めても……。
毎朝の散歩が自分の感性の劣化にブレーキをかけてくれるのかなあと、今日も出かけている。出会った自然を少し紹介しよう。