児童文学やYAのなかには、「荻上チキ・Session」(TBSラジオ)のコンセプトのように「知る→わかる→動かす」というような役割を果たそうとするものがある。たとえば、社会的にあまり認知されていない「ヤングケアラー」を描いた濱野京子『with you』(くもん出版、2020年11月)は、これに当てはまるだろう。
このような側面を持った物語には、比較的注目も集まりやすいようで、「産経新聞」(2021年1月31日)や「毎日新聞」(2021年2月3日)などの媒体で、作者のインタビューも交えながら広く紹介されている。前者の記事では「名前を持つことはとても意味が大きい」という作者の言葉も紹介されており、この物語の啓蒙的な役割についての自負も読み取れる。
ただ一方で、このような側面に注目しすぎることで、物語の本質を見誤ってしまうことも危惧される。「なにを描いているか」というモチーフ自体も大事だが、そのモチーフを「どう描いているか」という表現には、物語の真価が問われる。「知る→わかる→動かす」というのは、そう簡単なことではない。だからこそ、子ども読者に寄り添うための語り方を、児童文学やYAはずっと探してきたのだ。このような試行錯誤を、濱野作品も続けているように思う。その試みについて少し考えてみたい。
近作『野原できみとピクニック』(偕成社、2021年3月)は、これから始まる物語を予告する「短いプロローグ」から始まる。
少年はホームに立っている。向かい側のホームには少女が立っている。ホームとホームの間には、四本のレール。
少女は海に近い町へと帰っていく。
少年は山の手の町へと帰っていく。
二人はこんなに近くにいるのに、互いの目に入ることはない。奇跡が起こらないかぎり。
でも、もしも奇跡が起こったら?
交わるはずのない平行線が交わって、指先が触れあった瞬間に、飛び散った火花がスパークして、夜空を明るく照らすだろう。
ここでは駅や線路のイメージを借りながら、「少年」と「少女」の境遇の違いが印象的に表現されている。本編に入るとすぐに、「少年」は私立の中高一貫のS学園に通う優弥で、「少女」は公立のL高校に通う稀星(きらら)であることが分かる。同い年で同じ駅を利用して高校に通うという共通点がありながらも、異なる「ホーム」に立っている二人の境遇が、やや過剰に思えるほど対比的に描かれていく。
それぞれの人生において「いないも同然」だった二人が交わる「奇跡」が見られるのは、物語ならではのことかもしれない。偶然の出会い、惹かれあう気持ち、さらには「はもれびカフェ」という場所があることによって、物語は控えめに「スパーク」する。そして二人の行動が、次第に同級生や学校、商店街の人々を巻き込んでいく。
この「スパーク」によって照らし出されるのは、人と人とが「わかりあえないこと」だ。優弥と稀星、そしてそれぞれの高校の生徒たちが近づけば近づくほど、徹底して「わかりあえないこと」が了解される。しかしそれは、「進学校/底辺校」という安易な二項対立から抜け出す力を持つ、「知る」前とは違う「今」の尊さを示唆している。
「でも、どっか遠くにだれかがいるって思えたらさ、こっちだってほかのとこにも行けるって思えるじゃん」というのは、エイリアンをめぐる雑談のなかでの稀星のセリフだが、その後に優弥が「その気持ちが、今ならわかる」と変化する過程は、「少し長めのエピローグ」での希望とも響き合うものだろう。たとえわかりあえなくとも、大事にしたい「だれか」が具体的にイメージされたときに、さまざまなことが少しずつ変わっていくのだ。
この物語は、ずいぶんあっさりと終わってしまう。登場人物たちがわかりあうわけでも、目の前の現実が変わるわけでもない。ただ「今」と向き合うことで鍛えられる想像力の価値を、あらためて見直す契機となり得る物語なのだ。
宮田航平(みやたこうへい)
1989年埼玉県生まれ。東京都立産業技術高等専門学校ものづくり工学科准教授。専門分野は日本児童文学・国語科教育。主な仕事に「「わかり合えないこと」とどう向き合うか―児童文学のこれまで・これから―」(『子どもの文化』2019年8月)、『あまんきみこハンドブック』(共著、三省堂、2019年)などがある。高等学校国語教科書編集委員(三省堂)も務めている。