岡田美智男さんの文章を初めて読んだときのことは、今でもよく覚えている。雑誌に掲載された、学校のテストに関する文章だった。
学校はカンニングに厳しい。それは当然だと私は思っていた。ところが岡田さんはこう書く。「企業から大学などの教育現場に戻ってみると、『テストはひとりで受けるもの、誰の力も借りてはいけません』という姿勢に、ちょっとした違和感を覚える。不謹慎だけれど、『知らないことは、知っている人に聞けばいいのでは……』と考えてしまうのだ」(「教育」2016年2月号 かもがわ出版)。
というのも、職場では「知らないことは、知っている人に聞く」という姿勢が大切だからだ。言われてみると、たしかにそうだ! でも言われてみるまで気づかなかった。学生時代にこれを読んでおきたかったと思った。
次に読んだのが『弱いロボット』(医学書院)。タイトルからして意外だ。ロボットは強いほどいいはずだ。物語の中でも現実でも、ロボットはどんどん強くなって、高性能になっている。それこそが進歩のはずだ。三島由紀夫に「弱いライオンのほうが強いライオンよりも美しく見えるなどということがあるだろうか」(『小説家の休暇』新潮文庫)という言葉があるが、ロボットはなおさらだろう。
ところが、本を読んでみると、まったくそうではないのだ。自分の思い込みが、見事にひっくり返される。これもまた子どものころに読みたかったと強く思った。
と、なんとこのたび、「弱いロボット」の子ども向けの本が出た! 読んでみて、とてもうれしかった。そう、自分が子どものころに、こういう本があってほしかったのだ。
弱いロボットとして〈ゴミ箱ロボット〉が出てくる。センサーでゴミを発見して、アームで拾い集めるというような高機能なロボットではない。ローテクなシンプルなもので、よろよろと動いている。自分ではゴミを拾えないのだ。それを見かねた子どもたちが、代わりにゴミを拾ってくれる。そうすると、ペコリとおじぎをする。子どもたちは楽しくなって、さらにゴミを探して拾ってくれる。

つまり、自立したロボットではなく、人の助けを借りるのだ。ところが、それで目的は果たせるし、人間側の満足度も高い。これは目からウロコだった。
私たちは、自立していること、ひとりでやれることを良いことだと思っている。幼いころから、ひとりでトイレに行けるようになったり、ひとりで着替えができるようになったり、ひとりで寝られるようになったりするとほめられた。そうして、どんどんひとりでやれるようになるのが良いことだと学んでしまった。しかし、逆はかならずしも真ならずで、ひとりでやれないのはいけないことではない。それなのに、ついそう思ってしまっていた。

これは決してロボットだけのことではない。読んでいてふと、小学6年生のときのことを思い出した。担任の先生が夫を亡くし、悲嘆のあまり授業ができなくなった。クラスのみんなは、親に言わず、他の先生にも気づかれないようにして、自分たちで自主的に勉強を進めた。先生が弱くなったことで、みんなが先生を助けようとし、かえって勉強意欲が高まり、中学受験に合格する者も多かった。
弱いこと、できないこと、わかりにくいことなどは、マイナスとばかり考えられがちだ。しかし、決してそんなことはない。子どものころからそれをわかっていれば、どれほどいいだろう。
他にもいろんな弱いロボットが登場する。スラスラ話せずに、「いいよどみ」や「いいなおし」の多いロボットは、個人的にとくに好きだ。文章を書く仕事をしているからこそわかるが、うまく話せないことこそ、言葉にできないことまで言葉にしようとがんばっているということなのだ。

弱いことにはさまざまな可能性が開けている。そしてもっと大切なのは〝弱いのはおもしろい!〟ということだ。
今、「子どもに読ませたい本は?」と問われたら、真っ先にこの本をあげる。



