本作は、「呼人」という、なにかを引き寄せてしまう体質、あるいは宿命を背負った、背負わされた人びとと、彼らを内包する社会を描いている。引き寄せてしまうものの対象は多様で、植物だったり、虫だったり、動物だったり、特定の属性を持った人間だったりする。だから彼らは、住居を持たず、定期的に移動する生活を強いられている。社会に混乱を招いたり、生態系を狂わせたり、危害を加えられたりすることを避けるためだ。
セーフティネットもそれなりに機能しているが、原因が究明されていない以上、体質そのものを変えることはできない。生まれつきだったり、とつぜん目覚めたりする「呼人」としての能力を、だいたいが持て余し、苦悩している。本作はその世界観を、当事者の視点のみならず、あらゆる立場から多角的に描き出している。
読み終えて一ヶ月ほど経つが、まだ自分が「呼人」になってしまった、という、なんともいいがたい没入感、胸がざわざわする感じが抜けない。「呼人」になったらどうしようって、気がつくと考えている。それは「よりすくないほう」へ、この身が落ちていくことの恐怖といってもいいのかもしれない。
個人的な話になるが、わたしはこれでも、「すくないほう」であるという経験は味わってきたつもりだ。女でも、男でもない、透明な性で生まれついたこと。男性とみなされる身体で、男性を愛すること。
自分は世界のどこにも存在しない、と思っていたときもある。おなじような人びとを、クラスや、映画や、ものがたりなどの観測範囲内では見つけられなかったからだ。「すくないほう」は、さみしい。「すくないほう」は、こころぼそい。だからわたしは、この十年くらい作家として、「わたし」という最小単位で文章を書いてきた。わたしはここにいるんだ、という気持ちをいつもいつもこめて。
だけどいまのところ、わかってもらえた、と感じられたことは、あんまりない。共感や、想像をしてもらえることと、実感として「わかる」こととのあいだには、それなりに深い断絶があるのだ。それはごく親しい友人や、家族でさえ同様で、むしろ近ければ近いほどわからないものなのかもしれない。
じっさいわたしも、「呼人」の気持ちはわからない。わかる部分や、想像で埋められる部分もおおいにあるし、それが「呼人」になったらどうしよう、という恐怖を生んでいるにちがいないのだが、わからない。というより、わかりますなんて言えない。
だってわたしも、「わかります」なんて当事者でもない人に言われたら、ぶっとばすぞって思うから。
この夏、父が病気になった。国内の患者は数千人足らずという、とってもめずらしい病気で、本作で語られる「呼人」の総数よりもうんとすくない。
これまでマジョリティとして生きてきた父は、とつぜん「すくないほう」へ転落したことに、戸惑いを通り越して茫然としていた。おなじくマジョリティとして鈍感に生きてきた母は、父以上に動揺し、スーパーなどで出食わす健康そうな夫婦や家族連れに、感じたことのない羨望と怒りを覚えているようだった。
わたしはそれ見たことかとばかりに、「わかったでしょう。これがマイノリティの世界なんだよ」なんて言ってみせたけれど、胸のすくような思いを味わう一方で、やっぱりわたしにも父の気持ちなんてわからないし、母の気持ちもわからない、と思った。
わたしはノンバイナリーで、ゲイと見做されるセクシャリティを生きていて、おまけにうつ病を抱えていたりもするが、国内に数千人しかいないということはないし、パートナーがそうなった経験もない。また、ただそこにいるだけで鹿やら虫やらが寄ってくるという体質でもない。
でも、わたしたちは、わかりあえないのだろうか。わかりあえないまま、ほんのすこし笑みを返しあうだけの関係に、とどまって消えていくのだろうか。
『呼人は旅をする』は、「すくないほう」の人びとをめぐる、血の滲むような寓話である。現実に生きるだれもが「呼人」なんてものにはなりえないし、なりえない以上、共感することには限界がある。
たとえ「すくないほう」同士であっても、わたしたちはなかなかわかりあえないものである。けれど、わかりたい、という気持ちも同時に抱えているはずだ。わかってほしい、って気持ちとおなじくらいに。
本作に充満するのは、「わからない」を越えていきたいという、いびつでオリジナリティに満ちたわたしたちの願いと、そんなわたしたちを内包する社会への祈りである。わからないけど、わかりたい。わかってもらえなくても、つたえたい。その気持ち自体に価値があるのだと、ものがたりを通じて思いを新たにした。
また、「すくないほう」のものがたりは、読み手の言葉も誘発する。
あなたもどうか、語ってみてほしい。ものがたりに揺り動かされた、「すくない」あなたの一部を、どんなかたちでもいいから、吐き出して見せてほしい。ひとりぼっちに思えても、あなたが暗闇で鳴らしたベルの音に、気が付く人がいるかもしれない。ほっとする人がいるかもしれない。
それを希望というのかもしれない。