詩人のジョーダン・スコットさんが、吃音に悩んだ少年時代のことを書いた『ぼくは川のように話す』。吃音ではなくても、話すことに苦手意識を持つ人は多いと思う。私自身も、思いを言葉にする難しさにずっと苦労してきた。
作品や絵について質問を受けるとき、悩みながらなんとか答えを捻り出しても、口から出てきた言葉一つ一つに違和感を感じてしまう。頭の中で感じているものは、直感的なイメージで言葉ではないので、それを言葉に変換するのに、建物を一から作るような苦労が生じる。自分のことをすらすらと語れる人が羨ましい。子供の頃も赤面症で、人前で話すのが大嫌いだった。自分は何も考えられない馬鹿なんだろうかと随分悩んだ。
そんな時、中学生くらいだったと思うが、兄が「お前は何を言ってるのかよく分からないが、絵に描くと言いたいことが分かる」と言ってくれたことがあった。その言葉が、この本のお父さんの言葉のように、私の人生を大きく勇気づけてくれた。私は絵という言葉を持っているんだ!と。
表現方法は人それぞれで、話すのが苦手な人も、もちろん何も考えていないわけではない。みんなそれぞれが感じ、それぞれの表現方法で生きている。
私はシドニーさんの絵が好きだ。印象的な絵や言葉は、読み手の感情を呼び覚まし、心にのこり、励ましたり、自信を与えたりする。シドニーさんの絵本にはいつも、ずっとその一枚を眺めていられるような印象的な場面がある。この本ではもちろん、表紙と、横開きの大きな絵だ。とても大きく描かれた〝ぼく〟の目を閉じた顔、その背後からは光がさして髪の輪郭を光らせている。どこまでも広がる美しい水面に、読者の私はぐるりと囲まれている感覚になる。夏の朝のひんやりと気持ちのいい空気が匂うようだ。ああ、ここに行きたいなと思う。「ぼくの目は雨でいっぱいになる」というページの、抑えめなグレイッシュな光も良い。
私が好きなのは、シドニーさんの描く光だ。シドニーさんはSNSでこの本の制作過程を小出しに見せてくれていたのだが、表紙の絵(スケッチだったかもしれない)を一目見たときから、一気にこの少年の世界に引き込まれた。小さい時、どんな楽しいことが起こるんだろうと胸を膨らませていた、夏の始めの気持ちを思い起こさせる。目の前が眩しくて、目をつぶっても目蓋の赤い景色が見えるような、とても強い光。
私も絵を描くとき、光は重要な要素だ。その場面はどんな光なのか、時間帯や季節やシチュエーションを具体的に意識することで、描きたいイメージがより強く伝わると思っている。上手く言えないけれど、読み手もその描かれた光を見て、言葉に変換される前のイメージを直接感じ、懐かしく思ったり、自分の経験と重ねて感じてもらえるのだと思う。その光が、この本では希望になり、〝ぼく〟や読者の心に差し込んでくる。
何度も読み返して味わいたくなる、美しい本だ。
みやこしあきこ