「もうひとつの時間割」
落合恵子/作家
小雨の朝です。おはよ、えりさん、エミさん。往復書簡、読みました。
読み終えた後、しばらく庭に出て、ぼーっとしていました。あったかに充たされて、もしそう呼んでよければ、とても幸せな「ぼーっ」でした。
わたしの小さな庭にはいま、紫の濃淡の下垂性のトレニア、白いサンパラソル(正式にはマンデビラと呼ぶようです)、ルリマツリやジニア等が咲いています。
それにしても、思いっきり深呼吸をした後のような、この解放感&開放感は一体どこから来るのでしょう。
えりさんもエミさんは21世紀を生きる「いまの子」であるのに、読みすすむうちに、そして読み終えた後も、わたしもまたふたりと同世代であるような奇妙な錯覚に陥りました。わたしがふたりの年代だったのははるか昔、1950年代から60年代のはじめであるにもかかわらず、です。
それは、時代や社会はどんなに変わっても、「子どもという本体そのもの」は、そんなに変わってはいないのではないかということであり……。それだけ、この『あららのはたけ』が、深く豊かな普遍性をもった作品だということなのかもしれません。
えりさんとエミさんを誕生させた村中李衣さんも石川えりこさんも充分大人と呼ばれる年代ですが、大人の中にもときに、あらら、「損なわれることのない子ども時代」をこっそり隠し持っているひとがいます。普段は大人の顔をして暮していますが、村中さんも石川さんも、そういうひとだとわたしは思います。そして、そういうひとに共通するのは、社会やほかのひとが作った時間割とは別に、ひそやかな自分の時間割を持っているということでしょう。それも、損なわれることのない子ども時代を持ったひとの、特徴のひとつです。
えりさんのじいちゃんも、そうですね。仙人みたいに自分の時間割を生きているし、読んでいるだけでほっぺたが痒くなる桃の毛虫だって、けんちゃんちの猫の与作だって、えりさんの畑のじゃがいもだって、みんな、もうひとつの自分の時間割を持っているのです。
えりさんのじいちゃんて、すごいことを言いますね。植物は「危機をくぐりぬけると、その種の中でもっとも生命力の強い性質にもどる『先祖返り』することがある」とか。
えりさんがじいちゃんの話を聞いて思うでしょ?……人間はやられたらやりかえすか、やられっぱなしでくじけちゃうかだけど、植物の世界では、やられたそれがきっかけでほんとの自分にもどるっていうことがあるんだね、って。
わたしたちは、自分に生まれるというよりも自分になっていくのですよね? 周囲の人だったり事象だったり、もちろん植物だったり、「いろいろ」から「いろいろ」教わったり、自分に引き寄せたり、自分で引き受けたりしながら。
わたしはいま、友人の孫にあたる少年(ちょっとけんちゃんに似ているかも)に雑草についての、じいちゃんの言葉を贈ろうと思っています。
「ふまれるとな、いっぺんは起きあがるけど、もういっぺんふまれたら、しばらくはじいっと様子見をして、ここはどうもだめじゃと思うたら、それからじわあっと根をのばして、べつの場所に生えかわるんじゃ」。
わたしが時々、動物より植物のほうが強い(強いって、この漢字でいいかどうか迷うのですが)と思うのは、植物のまさにこういうところだし、人間という動物もまた植物のこんなところに学びたいと思います。えりさんが考えるように、「おんなじ場所でがんばらなくってもいい」と。そう思うだけで、この時代に忘れかけていた深い呼吸が戻ってくると思いませんか?
友人の孫と書きましたが、もしかしたらわたし、わたし自身にも、この言葉と、言葉の向うに見える景色を丸ごと贈ってあげたいと思っているのかもしれません。
落合恵子
1945年生まれ。執筆と並行して、東京、大阪に子どもの本の専門店クレヨンハウス、女性の本の専門店ミズ・クレヨンハウス等主宰。総合育児雑誌「月刊クーヨン」、オーガニックマガジン「いいね」発行人。子ども、高齢者、女性、社会が「障がい」と呼ぶものがあるひとなど、社会構造的に「声の小さい側の声」をテーマにした作品多数。