この小説は、主人公・颯太(中2)が、自分にもすりこまれている無自覚な「男らしさ」の呪縛や、日常生活にうめこまれた性差別に気づいてゆく様を描く物語である。
性差別構造が強い社会で暮らしながら、性差別的価値観に全く染まらないことは性別問わず誰であっても難しいことだ。私たちは、本当に幼い時分から、日常のあちこちでジェンダーバイアスがかかったメッセージを受け取っており、自覚がないままに価値観形成に影響を受けてしまう。大切なことは、自分の中の無意識なジェンダーバイアスに気づき、自らそれを修正して自分をアップデートしていくことだが、実際のところなかなか容易ではない。
例えば、颯太の妹は「わたしばかり家事をさせられて、お兄ちゃんがやらなくていいのはおかしい」と、家庭内性差別というべき現象について不満を述べていたが、颯太は当初はそれが何を意味するのか、世の中のしくみと連動するものとして深く考えることはなかった。また、颯太は、同級生の女友達になにげなくジュースをおごろうとして「なぜ私の分まで払うの?」とけげんな顔をされて気まずくなり、いたたまれない思いをした。学校の教師には「おまえら中学生男子なんて、しょせん、サル山のサルと同じだけどな。どっちが上か下か、そればっかりだよな」と冗談めかして言われ、そんなこというけど部活も勉強も、競争で上か下か競う「しくみ」に置かれているのに……と颯太はモヤモヤする。
日常の何気ない風景のそこかしこに、ジェンダーに基づく問題がひそんでおり、それに気づくことができる機会はその気になれば身近にある。むずかしいのは、それに気づき、変わろうと思えるかどうかなのだということを、颯太の心の揺れにつきあいながら感じさせられる。
重要な登場人物に、颯太の祖父がいる。家事の分担をせず、「料理」といえば蕎麦を何回か打ったことがある程度で、お昼ご飯は何がいいかと妻に聞かれたら平気で「簡単でいいよ。そうめんと天ぷらで」と言ってしまい、「天ぷらなんて簡単なわけないでしょう」と積もり積もったものが爆発して怒りだした妻に対し怒鳴りかえし、意地で天ぷらを揚げてみたもののやはり上手にできず、油まみれの洗い物も当然のごとく自分ではやらず孫に押しつけるようなマッチョな感覚の祖父である。
祖父は果たして寿命があるうちにそのジェンダー的に問題満載の価値観を改めることができるのか、最後まで気を揉みながら読み進めることになる。「マッチョな感覚」と書いたが、日本社会にはどこにでもいるような「ふつう」の年配男性像だ。つまり、「男は強くあれ」という抑圧を内面化し、自分の弱いところを他者に開示することをあまりしないできた結果、感情を言語化することが不得手で、家族に対してもいばった態度をとってしまうようなタイプ。こういう男性が、「男らしさ」の抑圧から放たれ、身近な人と対等な関係を構築していくためには何が必要なのか、という問いの答えの模索が祖父を通じて描かれている。ここでのキーワードは、弱さの開示と感情の言語化だと思う。
物語の冒頭から登場する猫は、颯太と祖父に対し、「今、変わるべきだ」と呼びかける重要な役割を果たしているが、その声は颯太には聞こえるのに、祖父には聞こえない。「きくつもりがないと、きこえない」というのはとても示唆的だ。目の前に変わるためのヒントがあっても、変わるために耳が痛くてもきこう、という気持ちがなければ耳に入らないということだ。逆に、変わりたい、変わろうとするのであればそれは何歳からでも遅くないはずだという作者のメッセージは温かい。思春期くらいの子どもから幅広い年齢に読まれてほしい。
太田啓子(おおた・けいこ)
弁護士。弁護士業務と自身の子育てをとおして悩み考えたジェンダー平等時代の子育て論『これからの男の子たちへ』が話題を呼ぶ。明日の自由を守る若手弁護士の会(あすわか)メンバーとして「憲法カフェ」を各地で開催。