次の日、ロミの住む街は大騒ぎになった。あちこちに、たくさんの不思議な絵があらわれたからだ。
その絵は子どもむけのマンガのような少ない線で描かれていて、犬を連れた女の人や、プロレスラーのような体格の男の人、おしゃれな若い男の人と女の人……と、いろいろだった。中にはおまわりさんの絵もあったけれど、どれも実際の人間くらいの大きさで、コンビニの駐車場の壁や交番の中の壁、しゃれた家の白い塀などに描かれていた。
もちろん、それをラクガキだと思って消そうとした人はいたけれど、実行にうつした人はいなかった。信じられないことだけれど––––その絵はしゃべったからだ。
いや、なにも口を動かして、声を出すわけではない。
絵のまわりにマンガのフキダシのようなものがあらわれて、その中にパソコンかタイプライターで打ちこんでいるような感じで文字がうかびあがってくるのだ。
「奇妙な絵が発見されたのは、こちらのお宅の塀です。ですが現在は警察の指示によって、この道路の通行が禁止されておりまして、絵のそばに行くことはできません。ですが、その奇妙な絵を見たという方がいらっしゃいますので、お話を聞いてみましょう」
テレビの中で、マイクを持った女性レポーターが、となりに立っていた50歳くらいの男の人にたずねた。
「あちらの塀に描かれていたのは、どんな絵でしたか」
「見たところ、若い男性のような絵でしたけど、どっちかっていうと、あれはマンガですね。なんとなく絵の上手な小学生くらいの女の子が、がんばって描いたって感じの絵ですよ。目の中に星が描いてあるし、脚なんか、あり得ないくらいに長いんですからね。わたしは思わず、昭和のころの少女マンガを思いだしました」
「なんでも、その絵のまわりにマンガのフキダシのようなものがあらわれるそうですが」
「えぇ、出ますよ。わたしが見つけたとき、てっきりラクガキだと思って、つい『早く消さないと』ってつぶやいちゃったんですけど……それに答えるみたいにフキダシがうかびあがってきて、『いや、おれ、生きてるんで、消すのはカンベンしてくださいよ~』って文字が出てきましたね。もしかして、あの絵はホントに生きてるんじゃないでしょうかね……あ、その写真が、これです」
そういいながら男の人が手にしたスマホの画面をカメラにむけると、その写真が大きく映った。話のとおり、若い男の人の絵だったけれど、やたらと脚が長く描かれている。たぶん体の半分以上が脚だ。
「あぁ……これが、わたしたちのリリィがしでかしたことだっていうの?」
いっしょにテレビを見ていたミコおばさんが、両手で口元をおさえながらつぶやいた。きょうの午前中に病院から退院したばかりだというのに、こんなビックリするような展開が待っていたとは夢にも思っていなかったろう。
「マンガの中からリリィがぬけだしてきたって言われただけでも信じられないのに、こんなひどいことをしているなんて、いきなりいわれても」
きっと、そうだろうな……と、ロミは思った。
けれど、こんなマンガそのままのようなできごとでも、信じてもらわなければならない。さもなければ、ミューちゃんを助けることさえできないのだ。
きのう、ミューちゃんがマンガになってしまったのを見て、ロミは泣くことしかできなかった。けれど、そのロミを立ちあがらせてくれたのは、やっぱりミューちゃんだ。
〔ロミのいうとおり、リリィが“くらやみリリィ”に変身したんだとしたら、きっと理由があるはずだよ〕
壁に張りついたマンガのまま、ミューちゃんはいった。
〔その理由をつきとめれば、リリィを元にもどすこともできるんじゃないかな。そして、リリィが元にもどれば、わたしもここから出られると思うんだ〕
自分の身に起こった事態に、あまりあわてたようすでもないのがおどろきだけれど、そこがミューちゃんのすごいところだ。
〔とにかくロミは、早くリリィをさがして。それまで、このことは人にいわないほうがいいと思う〕
「えっ、どうして? 大人の人にいって助けてもらった方が、絶対に早いんじゃないの?」
〔これは、マンガからぬけだしてきた魔法使いのしわざです……そういって、すぐに信じてくれる大人がいるならね〕
場合によっては、マンガになったミューちゃんやお母さんは、絵なのか人間なのかを調べるために、なにかこわいことをされてしまうかもしれない。
〔最後はそうするしかないかもしれないけど、なにもしないうちはダメだよ。第一、知らない大人がいっぱいいたら、リリィも出てこなくなっちゃうんじゃないかな〕
自分たちの知っているリリィなら、やたらと明るい性格をしているから大人も平気かも知れないけど、“くらやみリリィ”はどうだろう。
〔さぁ、ロミ、早く行って。いつまでもここにいると、そのうちお姉ちゃんが帰ってくるよ。そしたら、あれこれ聞かれて、自由に動けなくなるから〕
「でも、もし消されちゃったりしたら」
たしか“くらやみリリィ”は、強くこすったら消えちゃう……といっていたはずだ。
〔ひぃ~、それはこまる。じゃあ、“絶対に消さないで”って、どこかに書いておいてよ〕
ロミは机の上にあったノートのうしろのページを2枚切りとって、いわれたとおりの言葉を書き、マンガになったミューちゃんとお母さんのおなかの上にセロテープで貼りつけた。
〔ありがたいことに、このままでいても、おなかが空いたり、トイレに行きたくなったりはしないみたい。でも、なるべく早くリリィを探してよ〕
「うん。ミューちゃんとおばさんは、絶対に助けるから」
壁に張りついたミューちゃんの右手のてのひらに自分のてのひらを重ねて、ロミは誓った。
その後、ミューちゃんの家を出て、マンションの踊り場で例のシールを貼ったパスケースを使って、リリィを呼び出してみた。それが一番の早道だと思ったからだ。