「読むこと」をテーマに、自身の読書体験、おすすめの本などについて、作家・小手鞠るいさんが語ります。
本を読んで感動して泣く。ドラマや映画を観て泣く。
だれでも一度、ならず何度も、そんな涙を流したことがあるのではないだろうか。
実のところ、わたしはあまり泣かない。大人になってからは、ほとんど泣いたことがない。現実の世界で悲しいことが多すぎるから、嘘のお話を読んで泣くなんて、そんな柔なことはやってられないのである。
涙を浮かべる、ということくらいなら何回か、あったかもしれない。
しかし、ここで言っているのは「泣く」という行為である。涙を流しながら、声をあげて、あるいは、声を押し殺して泣く、というような状態を思い浮かべていただきたい。
フィクションを読んで、そんな状態で泣いたのは、いったいいつだっただろう。
ふり返ってみると、これがなんと、小学生時代までさかのぼってしまう。
小学生の少女をわんわん泣かせた1冊の本。
それは『フランダースの犬』だった。
子どものころに読んで心に残った本について、作家、俳優、映画監督など、合計70人の人たちが語っている『十歳までに読んだ本』(ポプラ社)のなかでも、わたしは『フランダースの犬』を取りあげている。
この作品は「主人公と犬の凍死で終わる悲しい物語」で、子ども時代のわたしはこの物語を「何度読んでも、そのたびに号泣していた」と書いている。
その理由はほかでもない「犬」にある、と、今のわたしは分析する。
たとえばこれが「フランダースの母」だったり、「フランダースの先生」だったり、「フランダースの友だち」だったりしたら、それがどんなに悲しいお話であったとしても、わたしは泣いたりしなかっただろう(もちろん今も絶対に泣きません)。
犬だから、泣いた。泣かずにはいられなかった。
物語のはじめの方に、パトラッシュという名の犬がひどい飼い主にいじめられている場面が出てくるのだけれど、すでにそこで号泣していたのではないかと思う。
では「フランダースの猫」だったらどうか。猫でも泣いた。号泣だったと思う。小鳥はどうか。泣いたと思う。熊は? 鹿は? 蛇は? 蛙は? やはり泣いたと思う。
少女だったわたしは「動物あるいは生物の物語」にめっぽう弱かった。わたしの涙腺を刺激し、破裂させるのはつねに「動物のお話」であった、ということである。
なぜか。
答えはとてもかんたんだ。ここに書かなくても、みなさん、おわかりだろう。
動物が好きだから。人間よりも好きだから。
人はだれでも「自分の好きなもの」に弱い。そこを突かれると、泣く。おそらくそこには、ふだんは隠れている「涙の泉」があって、突かれるとそこから水が湧きでてくるのではないか。あとからあとから湧いてきて、止まらなくなり、あふれでる。感動の涙とは、そういうものだろう。
自分は何に弱いのか。どこをどう突かれると、涙の泉があふれるのか。
これについて、つらつら考えていると、そのうち「自分はどういう人間なのか」がぼんやりと見えてくるから、おもしろい。
わたしの場合には「わたしはつめたい人間だ」となる。動物に対する愛情が強すぎて、その分、人に対する愛情が人よりもうすいような気がしてならない。
誤解と非難を恐れず書けば、動物をいじめるような人は、地獄に落ちればいいと本気で思っている。さらに書いてしまえば、動物虐待をするような人は、刑務所送りにすればいいとさえ思っている。若い友人から「どんな人と結婚したらいいでしょう?」と、きかれたときには「動物の好きな人と結婚しなさい」と答えている。
そんなわたしでありながら、今はもう『フランダースの犬』を読んでも、号泣しないし、涙も浮かべない。どんな「動物の物語」を読んでも、泣くことはない(もちろん動物愛は絶対的に強いのですが)。
なぜか。
話は14年ほど前にさかのぼる。
今から14年前、わが子のようにかわいがっていた猫に死なれた。そのときわたしは、一生分の涙を使いはたしてしまった。つまり胸の奥にあった「涙の泉」は涸れてしまい、もう一滴も残っていない。これは、嘘のような本当のお話である。あれ以来、どんな物語を読んでも、わたしが泣くことはない。
思うに、幸せや喜びというのは、非常にわかりやすいものだ。それは太陽みたいなもので、見上げると空で、きらきら輝いている。
けれど、不幸や悲しみや苦しみは千差万別で、わかりにくい。とくに悲しみは、地中に埋もれている。少なくともわたしはそう思っている。
猫に死なれたとき、わたしの夫は「同じように猫に死なれた人に会って、悲しみを打ちあけあって、乗りこえたい」────そう言って、どんどん外へ出ていった。一方のわたしは「だれにも会いたくない、とくに、猫の好きな人には会いたくない」────そんな気持ちになっていた。
夫は「猫の写真はいっさい見たくない、悲しすぎる」と言い、わたしは猫の写真をそこら中に飾った部屋に閉じこもっていた。
同じ1匹の猫をかわいがっていた夫婦なのに、悲しみ方はまるで違っていた。ここにも、わたしと夫がそれぞれ「どういう人間なのか」がよく表れている。
先に紹介した『十歳までに読んだ本』に寄稿したエッセイの最後を、わたしはこのように結んでいる。
『フランダースの犬』はわたしを小説中毒にしてくれた偉大な作品である。いつか、こんな悲劇を私も書いてみたい、とは、今はまだ思っていませんが……。
この最後の一文を書いてから数年後に、わたしは『テルアビブの犬』という悲劇を書いた。不幸、理不尽、不条理などがこれでもかこれでもかと出てくる、かわいそうでたまらないお話である。『フランダースの犬』の舞台を日本の寒村にして、画家を目指していたネロを作家志望の少年に置きかえて、書いている。優しいおじいさんも出てくるし、もちろん犬も出てくる。短歌でいうと、本歌取りの作品である。
この本を読んで「泣きました」というお手紙やメールをたくさんいただいた。うれしかった。幸せな気持ちを味わった。
『テルアビブの犬』という悲しい物語を書くことによって、わたしは、干上がった涙の泉を潤したかったのかもしれない。しかし、まだ補給が足りなかったのか、つい先ごろ、『フランダースの犬』のラストをハッピーエンドにしたらどうなるか? というような物語を書きあげたところである。
犬が大好き。猫も好き。動物ならなんでも大好き。
この感情がある限り、わたしはこれからも作品を書きつづけていけるだろう。わたし自身は泣かないけれど、書いた作品に宿る涙の泉は健在だ。