「読むこと」をテーマに、自身の読書体験、おすすめの本などについて、作家・小手鞠るいさんが語ります。
5、6年前から、岡山大学で、夏期集中講座を受けもっている。
言語表現論という正式な授業で、内容は「小説の書き方」「小説家になるためには」。受講生の大半は、小説家志望の文学部の学生たち。授業の最終日には、短編小説を書きあげることを目標にかかげている。
大学からホテルにもどって、学生たちがその日、途中まで書いて提出した作品を読んでいると、頰に笑みが浮かんでくることがよくある。ああ、この学生は、わたしと同じなんだろうな、と思って。
翌日、その学生にたずねてみる。
「あなた、村上春樹のファンなんでしょう?」
「えっ、先生に、どうしてわかるんですか」
わかるもわからないもない。
「だって、村上春樹にそっくりじゃないの、この内容とこの文章」
そういう学生は、ひとりやふたりではない。ここ数年、教室で「村上主義者」に出会う機会は、けっこう多い。
好きな作家の作品をまねて書く。
これは、小説家になりたい人にとっての、意義ある第一歩だと、わたしは考えている。有名な画家だって、無名だった時代には、美術館に足しげく通って、名作の模倣を重ねていたというではないか。かく言うわたしも若かりしころは、田辺聖子の小説のまねばかりしていた。
小説家として、曲がりなりにも生計を立てていけるようになってからも、「ああ、書けない」と思ったときには、村上春樹の『スプートニクの恋人』を机の上に広げて、「こういうふうに書けばいいんだ」と、自分に言いきかせたりしている。
わたしの村上作品ベスト3は長年、『ノルウェイの森』と『スプートニクの恋人』と『国境の南、太陽の西』だった。最近ではこれに、近作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が同点で入っている。
こんなことを書くと「ええっ」と驚かれるかもしれないけれど、『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』や『1Q84』や、近作の『騎士団長殺し』はわたしにとって苦手な小説に分類される。読み手として、わたしはこれらの作品についていけていない。読者失格なのである。
だれかに感想をきかれたら、わたしはこう答えるだろう。
「すごくよかった。でも、よくわからなかった。歯が立たなかったし、理解できなかった」
それでもファンと言えるのか?
言えるのである。
なぜならわたしは、村上春樹の書いた「文章を読む」のが好きだから。
書かれている内容に興味がなくても、テーマが理解できなくても、読むことそれ自体が快感だから。一字一句を読みながら、大地に染みる雨のように、すべてのことばがわたしの心身に染みこんでくるのを感じている。そういう状態が実に気持ちいい。
だからどの作品も、くり返し、読んでいる。
忘れたころにまた読む。読んでいるときにはひたすら夢中で活字を追いかけている。読みおえたあとは「よくわからなかったなぁ。でもすごくよかった」と思っている。
読んで気持ちのいい文章を、好きなだけ、読む。
それでいいのではないかと思っている。
わたしは文芸評論家でもないし、書評家でもないし、大学教授でもない(夏期講座で授業をしていますが、自分を先生だとは思っていません)。だから、好きな作家の作品を心ゆくまで読んで「ああ、いいなぁ、好きだなぁ」と思う。
好き。もうそれだけで、じゅうぶんではないかと思っている。
逆の言い方をすれば、自分には合わない、好きになれない、と思ったなら、どんな名作であっても、読まなくていいと思う。友だちから、あるいは先生から「これ、いいよ」とすすめられても、素直に従う必要なんてない。自分が好きかどうか、読んでいて気持ちいいかどうか。判断基準は、これだけでいい。
アメリカで暮らすようになってから、日本語の書店で日本人作家の本に出会うチャンスがめっきり減ってしまった。けれども、アメリカの書店で、村上春樹の本に出会うチャンスは増えた。というよりも、昨今ではどこの書店に行っても「MURAKAMI」の本がずらりと棚に並んでいる。人よりも牛や馬の「人口」の方が多いような田舎の村の本屋さんにも、彼の作品はちゃんと置かれている。その棚の前で熱心に立ち読みしたあと、レジに向かっていく人の背中を何度、見送ったことだろう。
中米のニカラグアを旅しているさいちゅう、旅行者がカフェに残していったと思われる村上春樹のペーパーバック(『ねじまき鳥クロニクル』だったと記憶しています)を見つけたこともある。手に取ると、見返しのページにびっしりと、鉛筆で感想が書きこまれていた。
田舎町の教会で催されていたコンサートで知りあったアメリカ人チェリストから、
「きみは、ムラカミを原文で読めるんだね。うらやましいよ」
と、言われたこともある。
初恋の人は今や、地球人になっている。そのうち宇宙人になるのだろうか。とても誇らしい。これからも地球のかたすみで、村上春樹を読みつづけていく。