「読むこと」をテーマに、自身の読書体験、おすすめの本などについて、作家・小手鞠るいさんが語ります。
恋は、片想いに限る。
ひとりでひそかに思っている限り、その恋はいつまでも美しい花を咲かせてくれる。花が散って、実がなり、実からこぼれ落ちた種を植えれば、そこからまた新しい恋の芽が出てくるかもしれない。両想いになったとたん、あれやこれやと厄介が増える。相手が自分をどう思っているのかが気になりはじめるし、連絡がとだえたら「きらわれたのだろうか」と、思いなやむことになる。
ある日、ある 作家の書いた作品に出会って、好きになった日から、作家への片想いの恋が始まる。この恋は一生、つづくことだってある。ふられることも、きらわれることも、傷つけられることもない。これって、かなり素敵なできごとではないだろうか。
「その人」に出会ったのは、23歳のときだった。
わたしは京都にある大学を卒業したあと、そのまま京都で就職し、ひとり暮らしをしていた。久しぶりに郷里の岡山に帰省した折、実家に住んでいた6歳年下の弟が、
「おねえちゃん、この本、すごくおもしろかったよ。必読だよ。読んでみる?」
そう言って、わたしに一冊の本を紹介してくれた。正確に言うと、その本をくれた。
弟は17歳。地元の男子高校に通う高校生だった。
子どものころから、わたしは勉強家で読書家で努力家。弟は勉強よりは遊びが得意で、成績も悪く、親を心配させてばかりいた。高校生になってからも、勉強などそっちのけで、ローリング・ストーンズとエレキギターに夢中になっていた。
そんな不良の弟がわたしに本をすすめるとは!
いったいどんな小説なの?
興味津々で、弟からもらった本を読みはじめた。
顔も名前も知らない、新人小説家のデビュー作だった。
冒頭の何ページかを読んだだけで、ノックアウトされた。つまり、恋に落ちた。
片想いの相手は、村上春樹の『風の歌を聴け』──。
いつだったか、夫が教えてくれたことがあった。
「ホノルルで高校生をやっていたころ、カーラジオから、DJの叫び声が聞こえてきたんだ。みんな、いいか、まったく新しい音楽の誕生だ。これは革命だ。耳の穴をかっぽじって、よーく聴いてくれ!って」
高速道路を走りながら、ラジオのヴォリュウムを上げて、夫は耳をかたむけた。
ラジオから流れてきたのは、今までに一度も聴いたことのない、びっくりぎょうてんして腰を抜かしてしまいそうになるような、これが音楽と言えるのかと、唖然としてしまうような曲だったという。
「なんなんだ、これは、と思った。すごいと思った。運転席から1インチ、尻が持ちあがった。あのとき僕は確かに、新しい音楽の誕生に立ちあっていたんだと思う」
新しい音楽とは、ラップだった。
この話を聞いたとき、わたしは「そうだった、わたしもそんなびっくりぎょうてんを味わったことがある」と、なつかしく思いだしていた。
『風の歌を聴け』を読みはじめてすぐに「これは、今までに一度も読んだことのない、まったく新しい小説だ」と思った。思ったというよりも、体でそう感じていた。新しい小説のジャンルができあがったのではないか、自分はその誕生に立ちあっているのではないか、そう思うと、胸がふるえた。
やっと見つけた、そんな気もした。今まで、どんな洋服を着ても、どこかが自分に合っていない、似合っていないと思いつづけてきたのに、やっと自分にぴったりフィットする洋服に出会った、そんな感じだった。
以来、きょうまでの40年あまり、心躍る片想いはつづいている。
新刊が出るたびに、矢も盾もたまらず買いもとめて、むさぼり読む。翻訳書でも、エッセイでも、対談集でも、その人が書いたものなら、なんでも読む。
つまり、無条件で「好きだ」と思っている。無条件で肯定できる。
ファンとは、そういう存在だろう。わたしの場合、作家に会ってサインをもらいたい、会話を交わしたい、とは思わないけれど、書かれたものはすべて読みたいと思っている。村上春樹と同じ時代を生きて、同じ空気のなかで書かれた作品が「あたたかいうちに食べられる」ことに喜びを覚える。
今、当時の衝撃をふり返りながら、しかしわたしはこのように思っている。ある人にとってはそれが「衝撃の出会い」であっても、ある人にとっては別にどうってことのない、行きずりのすれ違いであることもある。一生、出会わないままでいても、なんの不都合もない。つまり、作家との出会いはきわめて個人的なものであり、あくまでも一対一のものであり、だからこそ、素晴らしいのだということ。
もしも、10代のあなたが「これは自分に似合う洋服だ」と思えるような作品に出会ったときには、その出会いをどうか大切にしてください。
作家との出会いもまた一期一会。一生つづく片想いの恋に出会えるということ自体、奇跡のようなできごとなのだから。