「読むこと」をテーマに、自身の読書体験、おすすめの本などについて、作家・小手鞠るいさんが語ります。
2年ほど前から「ゆめほたる環境読書感想文コンクール」の審査委員長を務めている。小学生から高校生までの(高校生を子どもと呼んでいいのかどうか、わかりませんが)子どもたちが本を読んで書いた感想文を、審査委員の先生方といっしょに審査し、最優秀賞作、優秀賞作、入選作を選びだすという仕事。
このコンクールの大きな特徴は、環境問題や動物保護について書かれている本の感想文を募っている、という点にある。
去年も、今年も、全国から寄せられた多くの作文を読んで、大いに感動した。
子どもたちの手書きの文字から、行間から、ひしひしと伝わってくるエネルギーに感電することしきりだった。感動し、感電し、考えさせられただけではない。環境問題に対して子どもたちの抱いている関心の強さ、意識の高さに、我が身をふり返って、大いに反省もした。
わたしは、ニューヨーク州北部に広がっている豊かな森の中で暮らしているせいか、環境問題や地球温暖化の深刻さについては、頭ではわかっているつもりでも、つい、甘く考えてしまいがちである。窓の外には、こんなに美しい森があるのに。こんなにきれいな空が広がっているのに、と、油断してしまうのである。
もちろん、厳格にリサイクルをして、エコバッグ持参で買い物へ行き、車の使用は最小限にとどめている。ごみになるような商品は極力、買わないように心がけている。その一方で「こんなことで、温暖化を食いとめられるのか」と、むなしくなったり、あきらめの気持ちが湧いてきたりもする。
そんな意気地なしのわたしに、子どもたちの作文は、喝を入れてくれた。
「大人たち、しっかりしろ!」
背中から、そんな声が聞こえてきたような気がした。
「大人たち、反省しろ。ぼやぼやしていないで、今すぐに行動を起こせ!」
だれの作文にも、大人たちを責めるようなことばは見当たらなかったけれど、仮に作文が怒りで満ちていても、わたしは驚きはしない。
地球環境をここまで壊したのはすべて、大人たちの責任である。壊れかけた地球で生きていくのは、子どもたちである。子どもたちは怒って当然だと思うし、もっと怒っていいとさえ思う。
子どもたちが読んだ本を、わたしも読んでみた。
胸に突きさっている2冊を紹介しよう。
1冊目は『クジラのおなかからプラスチック』(保坂直紀 著/旬報社刊)。
2018年の5月に、タイの海岸に打ちあげられて死んだおすの鯨を解剖してみたところ、お腹の中から、なんと、80枚以上のプラスチックの袋が出てきた、というショッキングな話から始まる本。重さにして、8キログラムにもなる袋だったという。このためにこの鯨は餌が食べられなくなって死んだ。
なぜ、鯨はこんなに多くの袋を飲みこんでしまったのか。言うまでもないことだけれど、海中に、それだけ多くの袋が漂っていたからである。ではなぜ、こんなに多くの袋が漂っていたのか。それは、人間がこれらの袋を捨てたからである。
つまりこの鯨は、人が捨てたプラスチックのごみによって殺された、と言える。
こんなことが起こっていいのだろうか。いいはずはない。
けれども、今、世界中の海では、鯨をはじめとする生き物たち、鳥たちがプラスチックのごみによって生命を奪われたり、危機にさらされたりしている。
実はわたしはこの本を読むまで、知らなかった。プラスチックというのは決して、消えてなくならないのだということを。
プラスチックのごみというと、ぱっと頭に浮かぶのは、レジ袋やペットボトルや食品の入っていた容器などではないだろうか。ところがプラスチックは、自転車にも洋服にもテレビにもパソコンにも、おもちゃにも、せんぷう機にもそうじ機にも冷蔵庫にも使われている。小さなものでは、歯ブラシや、長ぐつや、はさみや、シャンプーや洗剤の容器や、お弁当箱や、例をあげていくときりがないほど、わたしたちの生活に欠かせないものとなっている。
これらがひとたびごみになったとき、どうなるのか。
自然には消えてなくならないプラスチックの処理方法は、燃やすか、埋めるか。燃やすと二酸化炭素が発生して、地球温暖化を加速させてしまう。埋めたとしても、人工的なプラスチックは、微生物が分解してくれるわけではないので、ぼろぼろになり、細かくなりながらも、残りつづける。
細かく、細かくなったプラスチックのかけらは、マイクロプラスチックと呼ばれる物質になって、森や山や町から川へ流れこみ、川から海へ運ばれて、永遠に消えることなく、海を漂うことになる。これらを魚が食べ、鯨が食べ、そして、最終的にはわたしたちの口へ返ってくる。
本書によると、マイクロプラスチックは世界中の海に広がっていて、日本の海に漂っているマイクロプラスチックは、世界の海の27倍にもなっている、という調査結果が出ているそうだ。
さらにショックを受けたのは、世界の主要な国の首脳が集まってまとめた「海洋プラスチック憲章」という決まり───それぞれの国でプラスチックのごみを減らす努力をしていこうという約束───に、日本は署名しなかった、ということ。
日本の子どもたちはこのことに対して、もっと怒ってほしい。食ってかかってほしい。なぜ、署名しないのか、できないのか、と。
この本は、子ども向けにわかりやすく書かれた作品ではあるけれど、大人にこそ読ませなくてはならない。大人のひとりとして、わたしはそう思った。
もう一冊は『漁師さんの森づくり 海は森の恋人』(畠山重篤 著/講談社)。
畠山さんは中国で生まれ、宮城県の気仙沼湾で、牡蠣やほたて貝の養殖をいとなんでいる漁師である。
海は、子どものころから、畠山さんの遊び場であり、教室のようなものでもあった。昔の海には、どんなに豊富な生き物たちが生息していたか、精密なイラストと、畠山さんの語りに引きこまれて、まるで紙芝居を見ているかのように、次は何が出てくるの? 次は? と、ページをめくっていった。
この本を読むまで、やはり、わたしは気づくこともなかった。豊かな海を守っていくためには、森を守らなくてはならないのだということに。
いまの行政システムは、たてわり行政といって、山のことは林野庁、水田は農水省、川は建設省、海は運輸省というようにバラバラであることもわかりました。
でも森から海まで自然はぜんぶつながっているのです。
わたしはそのとき、ふと思いついたことがありました。大川上流の室根山の八合目には室根神社があります。このお祭りのとき、わたしたち舞根地区の漁民が、海から室根山が見えるところまで船を出し、そこの海水をくんで神社にささげ、それからお祭りがはじまることです。このお祭りは千二百年以上も前からつづけられているといいますから、すごい歴史ですね。
昔の人は、こうして、森と海のつながりを教えていたのではないかと、わたしは、はっとさせられました。
そうだ、室根山に広葉樹の森をつくろう。森づくりにみんなに参加してもらって、森と川と海のかかわりを考えてもらおう。
こうして、1989年(平成元年)に始まった、漁師さんたちによる植林。この行動のキャッチフレーズが本書のサブタイトルになっている「森は海の恋人」である。
「きょう、植えたブナの苗木が何十年かのちに大きくなって、毎年秋になると葉がおちて積もり、腐葉土ができます。雨が降るたびに腐葉土の養分が大川を通ってあそこの海にとどき、海の生き物を育てるんです。」
畠山さんといっしょに「体験学習」と称して、子どもたちもこの植林に参加しているという。大人にも参加させなくてはならない、と思うのは、わたしだけだろうか。
環境を破壊するということは、子どもたちの未来を破壊するということだ。こうなったら子どもたちの力で、無知で無責任な大人たちを変えていかなくてはならない。