「読むこと」をテーマに、自身の読書体験、おすすめの本などについて、作家・小手鞠るいさんが語ります。
ドイツで育ち、現在はニューヨーク郊外で暮らしているという作家、リアノン・ネイヴィンのデビュー作『おやすみの歌が消えて』の原題は『Only Child 』である。
Only childの意味を調べてみると「ひとりっ子」で、これがOnly a childとなっていれば「ただの子ども」「まだほんの子ども」というような意味になるらしい。
実のところ、本書を読んでみると「まだほんの子ども」の方がふさわしい、と思えるような内容だった。
タイトルなので、作者はあえて文法を無視して付けたのだろうか。
あるいはこれは、兄を亡くした弟が「ひとりっ子になってしまった」という意味をこめたタイトルなのか。あるいはまた、その両方を意味しているのか。つまり、まだほんの子どもがひとりっ子になってしまったお話。
原題についてはさておき『おやすみの歌が消えて』という日本語版のタイトルは、ことばとして美しく、想像がふくらむし、読む前にも読んだあとにも心に残る、秀逸なものだと思う。
この作品は、自分の通っている小学校で起こった銃乱射事件によって兄を失った、まだほんの6歳の男の子、ザックの語る物語である。
教室の外でたくさんの音がして、ろうかの向こうからだれかのさけび声が聞こえた。さけんでるのはチャーリーだ。「ああ、ああ、ああ!」と何回もくり返してる。なんでチャーリーはあんなふうにわめいているんだろう、と思った。うたれたんだろうか。じゅうげき犯が学校に来たときのけいび員の仕事は、すごくあぶないに決まってる。
ほかにもさけび声や、だれかをよぶ声や、いろんな声が聞こえた。「ああ、うわあ、うわああ」「頭部がいしょう、そく死です!」「だいたい部から出血。あっぱくほうたい、しけつたいをくれ!」けいさつの人のベルトにかかった無線の道具からは、ビーっという音が鳴りつづけ、早口で話す声がいっぱい聞こえたけど、何を言ってるのか、よくわからなかった。
惨劇が終わったあと、ザックたちは警察官の誘導で小学校から教会へと移動する。
そこで、迎えに来てくれる両親を待つことになっていた。ザックを迎えに来た母親は、兄のアンディの姿が教会内にないことに気づいて愕然とする。
ママは早足であちこち歩きまわり、頭を左、右、左、右へふりつづけてる。ぼくは教会のいちばん前の祭だん近くにいるママに追いついて、もういっぺんママの手を取ろうとしたけど、そのときママは手をあげて、けいさつの人のうでをつかんだ。だから、ぼくはママのそばに立ったまま、ポケットの中に手を入れてあたためた。「息子が見つからないんです。子どもたちは全員ここにいるんですか」ママがけいさつの人にたずねた。ママの声はいつもとちがって、かん高い。ぼくはママの顔を見あげ、どうしてそんな声を出したのかをたしかめようとした。ママの顔は、目のあたりに赤いぼつぼつがたくさんあり、くちびるとあごがふるえてる。たぶん、雨でびしょぬれになったから、ママも寒かったんだろう。
まだほんの子どもに過ぎないザックの観察眼は鋭く、細かいところにまで向けられている。
言うまでもないことだけれど、ザックの観察眼とはすなわち、作家の観察眼である。作家は、少年のまわりで起こっていること、家族のようす、人々のようす、のみならず、少年の内面へと深く分けいっていき、幼い子どもの心の中で起こっている出来事を、微に入り細を穿つようにして、ことばに変えていく。
その描写力は、読んでいて苦しくなるほど容赦なく、執拗である。
悲しみの毛布は教会の外へ出ても消えなくて、おはかに着いたときにはもっと重くなった。ぬかるんだ地面に立って雨にぬれながら、ぼくたちはアンディのおはかをかこんだ。ぼくはアンディのひつぎが入る深くて暗い穴から目をそらし、すぐとなりの大きな木をじっと見つめた。その木は黄色やオレンジの葉っぱをいっぱいつけ、雨にぬれてかがやいている。まるで木全体がもえてるみたいだ。こんなにきれいな木は見たことがなく、アンディのおはかのすぐとなりにあってよかったと思った。
アンディのひつぎが穴に入ると、悲しみの毛布が重すぎて、ママが立っていられなくなった。パパとミミが両わきからママをささえ、車に乗せた。悲しみの毛布はぼくのかたにもかぶさり、家までずっとついてきたんで、ぼくはなかなか階だんをのぼれなかった。お客さまがいらっしゃるから少ししたらおりてきなさい、とおばあちゃんに言われ、ぼくはがっかりした。できれば、ずっとひみつ基地にいたかった。
何日かかかって、ぶあついこの本を読みおえたときに抱いた、わたしの正直な感想は「疲れた」────だった。
へとへとに疲れた。
けれど、読んでよかったと思ったし、読めてよかったと思った。
銃乱射事件という悲惨なできごとを「子どもの視点で読めた」ということは、大人のわたしにとって実に貴重な、得難い体験だった。
まるでフルマラソンを走りきったあとのような疲労感に包まれて、浮かんできたことがひとつ。
この作品は、子どものために書かれたのか、大人のために書かれたのか、という疑問。平たく言えば、これは児童書なのか、一般文芸書なのか。
原作者はおそらく、大人向けに書いたのだろう。主人公の父親が主人公の友だちのお母さんと恋愛をしていたことがあった、というエピソードも出てくるし。
翻訳者の越前敏弥さんはあとがきの中で「原則として小学校三年生までの漢字だけを用いた(一部例外あり)」と書かれている。
その理由は「子供による語りであること、ザックは感性も表現力も豊かな少年であること、大人の読者にも抵抗なく読んでもらいたいことなどを勘案し」とのこと。
大人の読者が子どもの語りを受けとめやすくするための工夫として、訳者は漢字の使用を子どものレベルに合わせた、ということだろう。
その結果、この作品は事実上、小学校3年生の子でも、ひとりですらすら読めるようになっている。つまり、児童書としても立派に成立していると言える。
これは画期的なことではないか、と、わたしは思った。
日本全国の親御さんから猛烈な反発を食らう覚悟で書くと、わたしは子どもたちにも、この「命の物語」を読んでもらいたいと思っている。
自分と同じか、下の年齢の子どもが兄の死を、兄が銃撃犯に撃たれて死ぬという経験を、どう苦しみ、どう生きたのか。
生と死の境目は常にあいまいで、人はいつ銃弾に倒れてもおかしくない生き物で、生き物である限りは、生きることの果てには死があって、人はひとりの例外もなく死ぬのだということを、物語を通して知ることは、かけがえのない体験だとわたしは思う。
鳥肌が立つほどおそろしい場面も多々あるし、見たくないものを見て、聞きたくないことを聞いて、考えたくもないことを考えなくてはならないかもしれないけれど、それでも読む価値はあると断言する。大人も、まだほんの子どもである子どもも。