「読むこと」をテーマに、自身の読書体験、おすすめの本などについて、作家・小手鞠るいさんが語ります。
このエッセイを書くために、昔、読んだ恋の物語を読みかえしてみようと思いたち、本棚の前に立ってみた。
わたしの本棚には、現代の作家の書いた恋愛小説がぎっしりと詰まっている。まさに、選りどりみどり。「恋愛小説書店」でもオープンできそうなほど。
しかしわたしは「恋愛小説」ではなくて「恋の物語」を読みかえしたい。
恋愛小説と恋の物語は、どこがどう違うのか。
これについては、また別の機会に書きたい。旅行と旅、少女と女の子、の違いみたいなもので、個人的な感覚に過ぎないような気もする。
何はともあれ「恋の物語」である。
一生けんめい探しているうちに、こんな一冊を見つけた。古い本である。
『美しい恋の物語 ちくま文学の森1』────発行されたのは1988年2月。
目次を開くと、島崎藤村、堀辰雄、尾崎翠、アンデルセン、ヘッセ、モーパッサン、フォークナー、リルケ、菊池寛、スタンダール、バルザックなどの名前が並んでいる。
これだ、と、ひらめいた。
わたしが読みかえしたかったのは「むかしむかし、あるところに……」で始まるような恋の物語────言いかえると、恋の昔話────だったのだ。
アンデルセンの書いた「柳の木の下で」を読んでみた(どんなお話なのか、すっかり忘れていたので、読みかえす、というよりも初めて読んだという感じ)。
キェーエの町のあたりは、一帯にたいへんさむざむとしたところです。もっとも、町は海岸にあって、それだけはいつもよい点だと思うのですけれど、ほんとうはもっとよくなってもいいと思います。町のまわりは広々とした平野で、はるかかなたの森のほうまでつづいています。しかし、人間はひとつところにちゃんと住みつくと、そこに何かよい点を見いだすものです。そして、後に世界で一番美しい場所へ行っても、昔の場所が恋しくなるものです。そこで、こういう話が生まれるのです。
これが作品の冒頭。ここから「こういう話」────恋の物語が語られていく。
主人公は、クヌートという名の男の子。
恋の相手は、ヨハンネという名の女の子。
ふたりの家は隣同士で、両親たちにも交流があり、ふたりはおさないころから、町はずれにある家の庭や道で仲よく遊んでいた。ヨハンネは「銀の鈴をふるうようなきれいな声」の持ち主で、クヌートは、柳の木の下でヨハンネの歌声を聴きながら、恋心をつのらせていく。しかし、幸せな日々は長くつづかない。ヨハンネの母親が亡くなり、父親が再婚することになって、父と娘はコペンハーゲンへ。ふたりは「悲しがっておいおい泣きました」。やがて、成長したクヌートは靴職人になって、コペンハーゲンへ。
コペンハーゲンで再会したとき、クヌートは19歳の靴職人に、ヨハンネは17歳の歌手になっていた。クヌートはヨハンネに、結婚の申しこみをしようと決心する。しかし、アンデルセンは容赦なく、ふたりを引きはなす。再会の喜びにひたっている暇もなく、クヌートはヨハンネから別れを告げられる。ヨハンネは、歌の勉強をするために、フランスへ旅立つことになったという。
クヌートには、世界がばらばらになったように思われました。今まで考えていたことが、ときほぐされたひものように、風の前に意気地なく吹き散らされてしまいました。クヌートはしばらくそこにいました。それは、みんなにすすめられたからかどうか、自分ではわかりませんでした。でも、みんなは親切にやさしくしてくれましたし、ヨハンネはお茶を出したり、歌をうたったりしてくれました。けれどもその歌には以前のような響きはありませんでした。もちろん申しぶんなく美しい声でしたけれど。クヌートの心のなかは千々に砕けるようでした。こうしてふたりは別れることになりました。
ここまでがこの物語の前半。後半から最後までのストーリーについては、ここには書かない。ハッピーエンドになるのか、それとも、悲劇で終わるのか?
少しだけ種明かしをすると、後半では主にクヌートの旅の話が語られる。
行きついた先は、ふるさとのキェーエの町はずれの柳の木の下。そこで、彼はこんな思いにかられる。
わずか一時間のうちに、人間は一生を生きぬくこともできるのです!
この一文に、わたしはノックアウトされた。
これこそが「恋というもの」の真実ではないかと思ったのだ。
アンデルセンさん、お見事、と言いたくなった。
『人魚姫』『マッチ売りの少女』『みにくいアヒルの子』『雪の女王』などの童話作家として知られるハンス・クリスチャン・アンデルセンは、1805年、デンマークで生まれた。父親は靴屋さん。家は貧しかったようである。14歳のとき、歌手になることを夢見てコペンハーゲンへ出ていったがうまくいかず、作家を目指すようになる。当初は、旅行記を書こうとしていた。28歳から29歳にかけて旅をした、イタリアでの体験をもとにして書いた長編小説『即興詩人』が世に認められ、その後、童話作家として創作を重ね、世界的な名声を得る。発表された童話は150編あまり。「柳の木の下で」は、48歳のときに書かれている。生涯、独身だった。
いかがですか? ここまで読まれたあなたには、すでにおわかりですね?
靴屋さん、歌手、コペンハーゲン、旅、生涯独身。
「柳の木の下で」もやはり、アンデルセンの体験をもとにして語られた恋の物語。「一時間で一生を生きぬくことができる」という一文は、アンデルセンの人生から生まれた。だからわたしの胸を貫通したのだろう。
最後にちょっと、りんごの木の下で、わたしといっしょに遊びましょうか。
島崎藤村が25歳のときに書いた詩「初恋」────1897年(明治30年)に発表された詩集『若菜集』に所収────を、現代の10代の女の子の視点で書いたらどうなるか?
60代のわたしが想像力で、挑戦してみました。
長い前髪をかきあげているきみを
りんごの木の下に見つけたとき
なぜかわたしの胸はときめいて
何かが始まる予感がした
これ、あげるよと言って
青いりんごの実を手渡してくれた
きみのやさしいまなざしに
わたしの頬はピンクに染まって
はじめての恋が生まれた
今ではわたしのため息が
きみの髪にかかるほど近くにいる
なんて楽しい恋の時間
飲んではいけないお酒に酔ってる
きょうもりんご畑を歩きながら
ねえ、この木の下のこの細道は
いったいどうしてできたんだろうねと
笑いながら問いかけるきみが好き