「読むこと」をテーマに、自身の読書体験、おすすめの本などについて、作家・小手鞠るいさんが語ります。
先ごろ、こんなおたよりをいただいた。
【小手鞠るいさん、はじめまして。私は京都に住む小学6年生です。読書が好きで、文章を書くことも好きです。わたしは書くことは好きだけど「書ける」と思うまでに時間がかかります。それに物語を書こうと思ってもネタが見つかりません。小手鞠さんの物語のもととなるアイデアやイメージはどこからわくのですか。お教えいただけないでしょうか。京都在住、本の虫より】
まるで、小学生だったわたしから、今のわたしに届いた手紙のようだと思った。
おさないころから読書が大好きだったわたしも「いつか、物語を書く人になりたい」と、あこがれるようになっていた。ちょうど小6くらいのときではなかったかと思う。とはいえ「ネタが見つからない」「アイデアやイメージはどこからわくのか」と、具体的な疑問を抱くには至っていなかった。ただ漠然と、夢見ていただけだった。本の虫さんはすでに、夢ではなくて、目標を抱いているのかもしれない。だとすれば、それは素晴らしいことだと思う。
小説家という職業には、年齢制限はない。小学生でもなれるし、会社を定年退職したあとでもなれる。作品さえ書くことができれば、そして、その作品を読んでくれる読者の存在さえあれば。才能や運に限って言えば、年齢による差はほとんどない、と言っても過言ではないだろう。
しかし、10代と60代の人を比べてみると、そこには決定的な違いがある。
それは、生きてきた時間の長さ。つまり、人生経験の豊かさ。
もちろん、個人差はあると思う。思うけれど、10代のわたしと、60代のわたしの人生経験を思いうかべてみると、両者のあいだには、圧倒的な差が存在している。
たとえば恋愛、たとえば仕事。出会った人の数、別れた人の数、遭遇したできごとの数(数だけを問題にしているわけではありませんが)────。
ここで、本の虫さんの質問にお答えすると、わたしの場合には、物語のネタもアイデアもイメージも、すべてはこの、人生経験から生まれてくる。
では、人生経験が少ないと、いい小説は書けないのか、というと、これがまんざらそうでもない、というのが小説のおもしろいところ。
わたしはこれまでに数多くの恋愛小説を書いてきたけれど、恋愛の経験はそれほど豊富ではないし、自分の体験だけをもとにして書いても、読まれるに値しない、たいくつな恋愛小説しかできあがらないだろうと思う。
豊かな人生経験を、読んで「おもしろい」と感じられる豊かな物語に結晶させていくために、どうしても必要なものがある。
それは、想像力である。
言いかえると、一度も恋をしたことのない人でも、恋を想像することさえできれば、恋愛小説は書ける。小学生にも書けると、わたしは思う。
その想像力は、やはり体験から生まれる。
ここで言う体験とは、恋愛そのものの体験ではない。恋をしていたときに感じていた「喜び」「苦しみ」「悲しみ」「胸の痛み」「せつなさ」「愛おしさ」「嫉妬」などなど、さまざまな感情。感情の体験によって作家は「体験していない恋の物語」を生みだすことができるのである。
正直なところ、わたしにとって恋愛は、それほどいいものだとは思えない。あんな苦しいもの、あんなつらいもの、もう二度としたくないとさえ思っている。それなのに、恋の物語を書いたり、読んだりするのは大好きだ。好きでたまらない。自分の体験した悲しい感情を文章でつづったり、人のつづった悲しい恋のお話を読むのが大好きだ。つまり、体験はもうしたくないけれど、想像はしたい。恋とはわたしにとって、そういうものになっている。
今から数年ほど前に『きみの声を聞かせて』という作品を書いた。
小学生から大人まで読める(と、わたしは思っています)恋の物語である。
心に悩みをかかえている少女がSNSを通して知りあった少年と、音楽やことばを送りあいながら、交流をあたためつづける。実際には会ったことのないふたりのあいだに、いつしか、淡い恋心が芽生える。
ここまでが起承転結で言うと「起と承」の章。やがて、日本でふたりが会えるかもしれない「転」がやってくる。「結」はハッピーエンドになったのかどうか、それはここには書かない。
この作品を書いたとき、わたしは50代後半。
「きみに会いたい」と書かれた少年からの手紙を受けとった、40歳以上も年下の少女の気持ちを想像しながら、わたしはこう書いている。
読みおえたとき、わたしのからだは、雪の嵐に包まれていた。
びっくり、うれしい、どうしよう。驚きと喜び。とまどいと迷い。不安とおそれと、なぜ不安なの? なぜおそれているの? という疑問のうずまき。
名づけようのない気持ちがぐるぐるまわっている。
まわりながら、空から降ってくる。
<中略>
ものすごくうれしいはずなのに、どうしよう、どうしよう、こまった、と、わたしの心は嵐にもみくちゃにされている。
なぜ、こまるの? 会いたい人に会えるのが、なぜこわいの?
そう、これが恋だ、これが恋というものだ、と、自分の書いた文章を書きうつしながら、思っている。
この感情の嵐。気持ちのアップダウン。次々にわいてくる疑問。矛盾している答えが胸をまっぷたつに分けている。自分ではうまくコントロールできない、とても乱暴な感情を10代、20代のころに、わたしはいやというほど味わった。
味わいつくしたからこそ、今でもありありと想像できる。この女の子のやるせなさを、まるで今、自分がそう感じているかのように。
これが小説のマジックだと、わたしは思っている。
体験していないことを、小説家は、かつて体験した「感情を使って」書く。
『きみの声を聞かせて』から3年後に上梓した『初恋まねき猫』という作品のなかで、わたしは、10代の「少年」の恋心を想像して、こう書いている。
またお手紙ください、待ってます、と、書こうとした手がふいに止まった。
体の底から、泉みたいに、わき出てくる思いがあった。
それをそのまま、ぼくは書いた。
<アエタライイナ。>
わき出てきたことばはなぜか、カタカナだった。
書き終えた瞬間、自分が別人になったような気がした。
生まれ変わったような、ひと皮むけて、まるで蛇が脱皮したみたいな気分だ。
これが、「大人になる」ということなのか。
大人になるということは、かっこ悪いことなんだなと思った。
アエタライイナなんて、そんなかっこ悪いこと、これまでのぼくには書けなかった。
いや、そうじゃない。大人になるということは、かっこ悪いとわかっていることを、かっこよくやることなんだ、きっと。
『初恋まねき猫』は「ハッピーエンドの初恋の物語を書いてください」という依頼に応えて書いた。初恋なんて、ハッピーエンドになりっこないと思っていたけれど、だからこそ、想像するのも、書くのも、とても楽しかった。