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放課後の読書クラブ

第8回 国語の教科書を読む 後編

「走れメロス」を読んだ中学生と大人

「読むこと」をテーマに、自身の読書体験、おすすめの本などについて、作家・小手鞠るいさんが語ります。

 50年前の教科書にも載っていて、50年後の教科書にも載っている作品を読んでみた。太宰治の『走れメロス』────光村図書発行の「国語2」では、第7章に当たる「7 表現を見つめて」の冒頭にこの小説の全文が掲載されている。400字詰めの原稿用紙に換算すると、約26枚の作品。1940年(昭和15年)に書かれ、雑誌掲載ののち、出版されている。

 中学2年生だったわたしはこの作品を読んで、どんな感想を抱いたのだろうか。

 この記憶については、あいまいではないと断言できる。

 「つまらない」と思った。

 物足りない。嘘っぽい。白々しい。感動できない。太宰治という作家に「裏切られた」とも思った。なぜならわたしは『走れメロス』を読む前に、両親の本棚に収まっていた『人間失格』と『斜陽』を読んでいたから。

 あの2作を書いた作家がこんな作品を書くなんて、と失望した。

 メロスは、友人のセリヌンティウスを裏切って当然ではないか、それが人間なのではないか、そういう人間を描くのが文学なのではないか、とも思った(偉そうに!)。

 それから50年が過ぎて、この作品を再読した大人のわたしはこう思っている。

 太宰治は、中学生だったわたしを裏切ってなどいなかった。

 当時のわたしは、書かれた順番を考えに入れていなかった。

 太宰治は『走れメロス』を書いてから7年後に『斜陽』を書き、その2年後────亡くなった年────に『人間失格』を書いている。『走れメロス』と、2作のあいだには、すべての価値観がひっくり返ってしまう「敗戦」がはさまっている。作品の中で、性善説が性悪説にひっくり返っても、決して不思議ではない。作家にも成長があったことだろうし、人間としての堕落もあったことだろう。

 しかし、それでもやはり、「なぜ『走れメロス』が教科書に載りつづけているのか」については、うさんくさい思いを抱かずにはいられない。太宰治の作品を中学生に読ませたいのなら、この作品よりももっと優れた作品が多数、あるのではないかと思えてならない。もしかしたら、世の大人たちは子どもたちに「人間とはいいものだ」「人とは信じるに値するものだ」「人の本質は善である」と教えたいのだろうか。それは、文学ではなくて、道徳教育の役目ではないのか。

 などと、思ってしまうわたしは、ひねくれ者なのだろうか。

 このエッセイを書くために、太宰治に関連する文献に当たっていたところ、こんな文章を発見した。

 太宰が自分の創作範囲をひろげようとした方法の一つは、西欧の小説や伝説にもとづいて改作することであった。この方法によって書かれた作品としては、「駈込み訴え」「走れメロス」、それに森鴎外が翻訳したドイツの短編にもとづいて書かれた「女の決闘」がある 。(中略)以上の作品は、欧米の読者にとって太宰の作品の中でも最も鑑賞しにくいものである。太宰の特色ある技巧は、「駈込み訴え」の叙述に明白だし、また、読者は明るいメロスの物語を、人間性について多くの皮肉な作品を読んだ後には、ほっとした気持で迎えることだろう。しかし私は太宰が外国のテーマを扱うことに何か妙に納得のいかないものを感じる。(中略)異人の登場人物は、完全に日本人にしたくなかったかのように、それでいてまことしやかな異人の人物を作り上げることができなかったように、二つの世界の間に不安定にぶらさがっているように思われる。(中略)「走れメロス」は、 よく太宰の傑作の一つとして迎えられているのみならず、教科書にもひろく載せられている。しかし、ちょうど外国の作家が日本人について書いた小説が(日本の読者の目で見る限りでは)何かこう誤っているように思われるように、これらのヨーロッパ文学の翻案物は、私の心を動かさない。

 1972年(昭和47年)に刊行された『日本の文学65  太宰治』(中央公論社)の巻末に、ドナルド・キーンの寄稿した解説の一部である。

 アメリカ出身の日本文学研究者であるドナルド・キーンが『走れメロス』に心を動かされない理由は、人物造形の不安定さと、外国人である太宰治がヨーローッパ文学をもとにしてこの作品を書いた、ということにあるようである。

 中学生だったころも、50年後の今も、わたしには、この作品の人物造形はしっかりと、しつこいほどになされているように思えるし、太宰治が外国人を主人公にして作品を書いたことに対する違和感もない。

 もしもわたしが今、中学校の教室で教師として教壇に立って、生徒たちといっしょに『走れメロス』を読んだ上で、何かを教えるとすれば「太宰治は果たして、メロスを、善なる人間として描いたのだろうか?」────という疑問を投げかけたい。

 そして、こう教える(偉そうな先生ですみません)。

 友との約束を守ろうとして、友の命が奪われるようなことがあってはならないと思い、懸命に走りつづけたメロスの姿を描くことによって、太宰治は、友情や献身ではなくて、自己愛、利己主義、自己陶酔といった、人間の醜い側面をあぶり出したかったのではないか。そのためにこそ、作り物としか思えないような、嘘のかたまりのような、この、メロスという恥ずかしい人間をあますところなく、描いてみせたのではないか。

 この作品の最後のこの一行に、大人のわたしは注目する。

 勇者は、ひどく赤面した。

 赤面しているのは、太宰治自身ではないかと、太宰よりも年上のわたしは思っている。赤面しながらも、逆説的で、皮肉に満ちた、偽善的な作品を書いた。

 懸命に、滑稽に走るメロスを描きながら、太宰治は「人間って、こんなものじゃないだろ」と、ニヒルに言いたかったのではないか。

 この作品が「人間って、すばらしいものだよ」と、教えるために中学校の教科書に載りつづけていることを知ったら、やはり太宰治は、赤面するだろうか。それとも、してやったりと、ほくそ笑むだろうか。おそらく後者だろう。作家の仕事は、読者をあざむくことなのだから。作家にあざむかれて、幸せな日常からは見えてこない真実を垣間見ることこそが小説を読む醍醐味なのだから。

 わたしが教科書を編むことになったら、太宰の代表作として『人間失格』を載せる。残念ながら、それは無理だろう。教科書には載せられない、いくつかの難点がある。心中未遂、アルコール依存、薬物中毒など。そこでわたしは、つい先ごろ『子ども失格』という掌編小説を書いた。いつか、機会があったら、中学生のみなさんに読んでいただきたいと願っている。

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profile

  • 小手鞠るい

    小手鞠るい

    1956年岡山県生まれ。同志社大学卒業。小説家。詩とメルヘン賞、海燕新人文学賞、島清恋愛文学賞、ボローニャ国際児童図書賞などを受賞。2019年には『ある晴れた夏の朝』(偕成社)で、子どもの本研究会第3回作品賞、小学館児童出版文化賞を受賞。主な作品に『エンキョリレンアイ』『きみの声を聞かせて』『アップルソング』『思春期』『初恋まねき猫』『放課後の文章教室』『空から森が降ってくる』など多数。1992年に渡米、ニューヨーク州ウッドストック在住。

今日の1さつ

もう40年近くも昔、私が小学生の時、担任の先生がこの本を使っており、私たちは呪文のように唱えながら楽しんで漢字を覚えました。現在私は教師となり、肢体不自由で書字が困難な児童を受け持っています。この本のことを思い出し、書店で探しましたが、まだ出版されていてよかった!!書けなくても楽しく漢字を学ぶことができます。永遠のベストセラーです!!(47歳)

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