「読むこと」をテーマに、自身の読書体験、おすすめの本などについて、作家・小手鞠るいさんが語ります。
青い瓦屋根の小さな平屋。マッチ箱のような形をした家だった。ガラガラと横にあける玄関の引き戸。部屋はふたつきり。まわりには、似たような家がずらりと立ちならんでいた。若かりしころ、両親は公団住宅の一軒を借りていて、わたしと弟は、そこで生まれた(妹も生まれたのですが、赤ん坊のとき亡くなりました)。
小学5年生の終わりごろまで暮らしていたその家の庭先には、桜の木が植えられていた。となりの家にも、向かいの家にも、植えられていた。生えていたのではなくて、植えられていた。
小学1年生の入学式の朝、満開の桜の木の下に、ランドセルを背負って立っているわたしの写真が残っている。
その桜の木は「うちの桜」だったというわけだ。
わたしはよく、この桜の木に登って遊んだり、木に話しかけたり、「背がもっとのびますように」「成績がよくなりますように」「これ以上、目が悪くなりませんように」「弟が危険な目にあいませんように」などと願いごとをしたり、幹に抱きついたり、ごつごつしたこぶをなでたりしていた。
うちの桜はわたしの親友だった。
母に頼まれて、桜もちを包むための葉っぱを集めたり、さくらんぼの季節になると、木から直接、実をつみとって、6つ年下の弟といっしょに、おやつがわりに食べたりしていた。悲しいことがあったり、親や先生に叱られたりしたときには、木になぐさめてもらっていた。
ある年のこと、どこからか、だれかがどやどやとやってきて、おとなりの家の庭の桜の木をのこぎりで切りはじめた。
「桜は病気にかかりやすいからなぁ」
「1本が病気になったら、ほかの木にもうつるんじゃ」
「じゃから、すぐに切らにゃあいけんのじゃ」(岡山弁です)
両親はわたしと弟に、そのように言って聞かせた。
桜の木が病気にかかっているようには見えなかった。まだちゃんと葉っぱもついているし、今年の4月には花も咲かせていた。それなのに、根もとからばっさり、切りたおされなくてはならないのか。
のこぎりの音に耳をふさぎながら、わたしは泣きそうな気持ちになっていた。まるで自分の身を切られているかのような痛みを心に感じていた。
かわいそう、桜の木がかわいそう。
桜の木が泣いている。切らないで、切らないで、と、悲鳴をあげている。
木を擬人化するわたしの習い性は、そのころから始まったと思われる。
それから50年以上の時が流れて、わたしは今、ニューヨーク州の森のなかで、無数の樹木に囲まれて暮らしている。
家のまわりには、栂、松、杉、栗、りんご、オーク、メイプル、ポプラなど、さまざまな種類の木が生えている。だれが植えたのでもない。ここには大昔から、木が生えていた。
木に囲まれて暮らす、ということはわたしにとって、親しい友人たちといっしょに暮らす、ということにほかならない。
この友人は、愛情深い。人にも動物にも小鳥にも昆虫にも、もちろん地球にもやさしい。人の悪口は言わない。人をいじめたりしない。人や生き物を傷つけたりしない。木はもの言わぬ、心やさしい友人だ、と、わたしは長年、そう思ってきた。
しかしつい最近、ある本を読んで、この考えを改めることにした。
驚いたことに、わたしの親友たちはことばを持っている、ということを教えてくれる本に出会ったのである。
本には、なんて素晴らしい力があるのだろう。
そういえば、本は木からできている。
本が語ってくれる物語は、木がわたしたちに語ってくれる物語なのかもしれない。