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たまねぎとはちみつ

最終回

冬(8)

 その後、ミホコさんは1度もお店に現れなかった。
 おじさんも言っていたように、1度会っただけで満足できたのだろうか。せっかく同じ街にいるのに、なんだか残念な気もするけれど、おじさんがこれでいいと言っている以上、いいのだと千春も思うことにした。さよならを言わなかったから、いつかまた気がむけば来てくれるかもしれない。
 ふた月半しかない3学期は、あっというまに過ぎてしまった。4月からは千春もいよいよ6年生になる。
 終業式の日、千春は学校の帰りにお店へ寄った。
 図工の成績が上がったので、おじさんにお礼を言うつもりだった。3学期の授業で、木箱に好きな図案を彫ることになって、彫刻刀を扱うコツをおじさんに教えてもらったのだ。完成した箱も持って帰ってきたから見せられる。ふた1面に、お店の床にのんびり寝そべっているミルクの姿を彫った。われながら力作だ。
 おじさんはいなかった。
 ここ最近では珍しいことだった。2月から3月にかけて、おじさんはいつになく忙しそうに働いていた。千春の知る限り、お店もほとんど毎日開いていた。
 お店の中は暗い。ヤエさんの姿も見えない。配達だろうか。ひょっとして、ミホコさんのところに行ってるのかな、と千春はちらりと考えた。おじさんに会えないのは残念だけど、それならそれでうれしい。
 もと来た道を引き返そうとして、なにげなく入口の引き戸に顔をむけたとき、見慣れないものが目に入った。吸い寄せられるように、千春はそちらへ近づいた。
 貼り紙だった。ととのった筆文字で〈アルバイト急募〉と書いてある。
 アルバイト急募。アルバイトを、急いで、募集している。それがなにを意味しているのか、のみこむまでに少し時間がかかった。
 のみこめた次の瞬間に、千春は駆け出していた。
 こんなに全力で走るのは、運動会のリレー以来かもしれない。いや、あのときだって、ここまで必死じゃなかった。
 2、3分で駐車場に着いた。見慣れたおんぼろの軽トラックが奥にひっそりと停まっているきりで、人影はない。まわれ右して、来た道を駆けもどる。先ほどと同じく、暗く静まり返っている店の前を素通りし、通学路に出る。ちらほらと下校中の子たちにすれちがう。けげんそうに見られたけれど、気にしている余裕はない。校門の前も通り過ぎて、駅まで走る。ロータリーをぐるりと1周する。いくつものバス停に列ができ、駅舎から大勢の人々があふれ出てくる。でも、おじさんはいない。

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  • 瀧羽麻子

    瀧羽麻子

    1981年兵庫県生まれ。京都大学経済学部卒業。『うさぎパン』で第2回ダ・ヴィンチ文学賞大賞受賞。著書に『左京区七夕通東入ル』『左京区恋月橋渡ル』『左京区桃栗坂上ル』(小学館)『松ノ内家の居候』(中央公論新社)『いろは匂へど』(幻冬舎)『ぱりぱり』(実業之日本社)『サンティアゴの東 渋谷の西』(講談社)『ハローサヨコ、きみの技術に敬服するよ』(集英社)など。

    写真撮影/浅野剛

今日の1さつ

100かいだてシリーズのおかげで50までしか数えられなかった娘も楽しみながら100まで数えられるようになりました。「かめのおばあちゃんはなんかい?」「100!」本に感謝です。(読者の方より)

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