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たまねぎとはちみつ

冬(6)

 でも、千春の思いもよらなかった方法で、魔法は解けた。
「あー」
 静まり返っていた店内に、大きな声が響き渡ったのだった。次いで、ベビーカーががたがたと揺れはじめた。
 皆がいっせいに、ベビーカーに注目した。千春も俊太も、杉本さんも、おじさんも。手すりとベルトでシートにしっかりと固定されたのんちゃんが、じたばたと手足を動かしていた。
 杉本さんがベビーカーの横にしゃがみ、娘をのぞきこんだ。のんちゃんはいよいよ激しく足をばたつかせ、ぷくぷくした手で前の手すりを乱暴にたたき出す。どうやらベビーカーから降りたいようだ。杉本さんがなだめるように肩や手をさすっても、効果はなかった。さも不服そうに口をとがらせ、あー、あー、と繰り返している声もどんどん大きくなっていく。
 杉本さんが腰を伸ばし、ぐるりと店内を見回した。それからもう一度かがんで、ベビーカーのベルトの留め金に手をかけた。暴れていたのんちゃんが、こちらも魔法がかかったかのように動きをとめて、ぴたりと黙った。
 床に下ろしてもらったのんちゃんの姿は、作業台の陰にすっかりかくれてしまった。
 なにせ、台よりも背丈が低いのだ。千春たちの立っている位置からは、かぶっている白い毛糸の帽子のてっぺんについている、もこもこしたぼんぼりの先しか見えない。
 千春と俊太はどちらからともなく、かに歩きで壁に沿って横にずれた。4歩目か5歩目で、のんちゃんの全身が視界に入った。
 上機嫌で歩いている。歩くといっても、なんの支えもなくひとりで歩くのはまだむずかしいらしく、作業台の側面に片手をつき、まわりをつたって進んでいる。1歩を踏み出すたびに、帽子のぼんぼりがひょこひょことゆれる。
「あー」
 たった1語で、喜怒哀楽を表現できるのがすごい。
 おぼつかない、それでいてはずむような足どりで、のんちゃんは少しずつ千春たちのほうへと近づいてくる。台の上までは手が届かないから、危ないことはなさそうだ。娘の後ろを、杉本さんもゆっくりとついてくる。
 おじさんは作業台の反対側から、ふたりの動きを––––のんちゃんのことは帽子しか見えていないだろうが––––目で追っている。

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  • 瀧羽麻子

    瀧羽麻子

    1981年兵庫県生まれ。京都大学経済学部卒業。『うさぎパン』で第2回ダ・ヴィンチ文学賞大賞受賞。著書に『左京区七夕通東入ル』『左京区恋月橋渡ル』『左京区桃栗坂上ル』(小学館)『松ノ内家の居候』(中央公論新社)『いろは匂へど』(幻冬舎)『ぱりぱり』(実業之日本社)『サンティアゴの東 渋谷の西』(講談社)『ハローサヨコ、きみの技術に敬服するよ』(集英社)など。

    写真撮影/浅野剛

今日の1さつ

100かいだてシリーズのおかげで50までしか数えられなかった娘も楽しみながら100まで数えられるようになりました。「かめのおばあちゃんはなんかい?」「100!」本に感謝です。(読者の方より)

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