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放課後の文章教室

第5回 自分を書く 4

英語の森で、日本語の風に吹かれて

「書くこと」について、若い人からの質問に、作家・小手鞠るいさんが答えます。

 英語の話をもう少し、つづけましょう。
 私の場合、家の中では日本語で作品を書き、夫とも日本語で会話をしていますが、家の外に出たら、そこはアメリカです。
 英語の世界が広がっています(スペイン語を話す人もいますが)。
 英語の世界と日本語の世界は、どこがどう違うのでしょうか。
 実にいろいろな違いがあります。小さな違いから、大きな違いまで。
 たとえば、あいさつ。
 散歩の途中で、知らない人に出会ったとき、アメリカでは笑顔で声をかけあいます。
 「こんにちは、きみは元気か?」「私は元気です、ありがとう、あなたは?」「ああ、俺も元気だよ、いい1日を」「ありがとう、さようなら」––––これが一般的な挨拶の会話です。ときにはそこに「きょうはいい天気だね」とか「あなたの連れている犬、可愛いね!」とか、もうひとことが加わることもあります。
 その人とはもう二度と、会うことなどないのかもしれない。それでも通りすがりに、これだけの会話を交わします。しかも、笑顔で。
 日本でこれをやったら「変な人!」と思われてしまうでしょう。
 アメリカで26年も「笑顔でこんにちは」をやってきた私は、今では、誰かの顔を見たらまず「にっこり笑う」が癖になってしまいました(笑)。日本に帰国しているとき、ついこれをやってしまって、白い目で見られていることもあります。
 たとえば、主語。
 日本語では主語がなくても、文章が書けますし、会話もできます。
 「このごろ、仕事で悩んでいることがあってね。話を聞いてもらえるだろうか」
 「いいですよ。どんなことですか?」
 日本語だとこれで、なんの問題もないですね。
 ところが英語だと、これではまったく文章にも会話にもなりません。
 英語だとどう言えばいいか、どう書けばいいか、直訳するとこうなります。
 「僕にはこのごろ、僕の仕事で悩んでいることがいくつかあるんだ。あなたに話を聞いてもらいたいのだが、あなたの都合はどうだろうか」
 「はい、私はもちろん喜んで、あなたの話を聞くことができます。あなたはどんなことで悩んでいるのですか?」
 ご理解いただけましたか?
 そうなんです。英語の世界は、言ってしまえば「私」と「あなた」の世界なのです。
 主体となる「私」と、話しかける対象である「あなた」。ふたつの単語をいちいち明確にしなくてはなりません。省略は、許されないのです。
 ですから、会話の中にはしつこいくらいに「私はこう思う」「私はこう考える」「私はこう信じる」と、「私は」「僕は」「俺は」が出てきます。
 まだアメリカに来てまもないころ、「アメリカ人はなんて自己主張が強いんだろう。いつも、自分のことばっかり言ってるね」と閉口していた私に、あるとき、夫が教えてくれました。
 「いや、アメリカ人は決して、自己主張をしたくて『私は』『僕は』と言っているわけじゃないんだよ。英語の文法がそうなっているから、仕方なく、そう言っているんだよ」
 そうだったのか、と、目から鱗が落ちました。
 なるほど、性格が先にあって、そうなっているのではなくて、ことばが先にあって、それで性格がそうなっているのか。
 英語の世界は「森のようだ」と、私はいつも感じています。
 森には木が生えています。
 木は、根と幹と枝と葉から成り立っています。まず主語があって、動詞があって、冠詞と名詞があって、その名詞は、単数形か複数形かを明らかにしなくてはなりません。常に文法先にありきなのです。
 日本語はどうでしょうか?
 曖昧で、柔軟です。
 主語をいっさい書かなくても、短編小説が1本、書けてしまいますし、読んだ人にはそれでも「主語が誰なのか」わかります。
 名詞の数を、いちいち示す必要もありません。たとえば「駅前に人がいた」と書くだけで、それがひとりであろうと、大勢であろうと、文法的に間違いではありませんし、その前後を読めば、どれくらいの人なのか、だいたい理解することができるでしょう。
 現在形と過去形の入り交じっている文を書いても、間違いにはなりません。
 日本語は「風のようだ」と、私は思います。
 森を吹き抜ける風です。草原を渡る風です。風は自由なのです。変幻自在だとも言えるでしょうか。風は、その使い手によって、暴風にも、そよ風にもなります。
 日本語は、世界でいちばん、習得するのがむずかしい言語だとされています。
 それはそうでしょう。透明で、形もなく、つかみどころもない、日本語は風なのですから。
 だからこそ、日本語は下手に扱うと、乱れて汚くなるし、醜くもなるし、伝わるものも伝わらなくなる、ということを忘れないで下さい。
 私の尊敬している翻訳家、金原瑞人さんの文章を紹介しましょう。
 『翻訳のさじかげん』(ポプラ社)からの引用です。

 作家であれ翻訳家であれ、いや、ごく一般の人であれ、文章で問われるべきは「正しい」とか「美しい」とかではなく、(その時代において、その状況において、読者にとって)「効果的であるかどうか」「本人の伝えたいものが伝わっているかどうか」だと思う。言葉というのは、伝えるためにあるものなんだから。
 そしてまた、古びないものなどなにもない。新しいものもやがて、ありふれたものになり、古いものになっていく。あらゆるものは時間がたてば古びる。もちろん古びても、なお次の時代に通用するものもある。しかし、そういったものが「本当に価値がある」ものであるかどうかもまた定かでない。そもそも、そのまた次の時代に通用するかどうかはわからない。というか、そういう絶対的な価値などおそらくないのだ。その時代、その社会、その人にとって価値を持つかどうか、それしかないのだと思うし、それでいいと思う。

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profile

  • 小手鞠るい

    小手鞠るい

    1956年岡山県生まれ。1993年『おとぎ話』が海燕新人文学賞を受賞。さらに2005年『欲しいのは、あなただけ 』(新潮文庫)で島清恋愛文学賞、原作を手がけた絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん 』(講談社)でボローニャ国際児童図書賞(09年)受賞。1992年に渡米、ニューヨーク州ウッドストック在住。主な作品に、『エンキョリレンアイ』『望月青果店』『思春期』『アップルソング』『優しいライオン やなせたかし先生からの贈り物』『星ちりばめたる旗』『きみの声を聞かせて』など。

今日の1さつ

とても大好きな本だったため、妊娠を機に友人にたのみ、プレゼントとして頂くことに…! 子どもも好きになって歌を歌ってくれたらいいなと思っています。(0歳・お母さまより)

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