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放課後の文章教室

第4回 体験を書く 3

小説とエッセイは紙一重

「書くこと」について、若い人からの質問に、作家・小手鞠るいさんが答えます。

––––大学の夏季講座「言語表現論」で小説の書き方を学んで以来、小説を書くのが楽しくてたまりません。でも、書いていて、いつも疑問に思うことがあるのです。私の書く小説って、エッセイみたいだなって。実は友だちからも同じことを言われました。小手鞠さん、教えて下さい。小説とエッセイって、どこがどう違うのでしょうか。某大学1回生、石村あゆみより。

 石村さん、質問のメールを下さって、ありがとう。
 「小説を書くのが楽しくてたまりません」––––いいですね!
 その調子、その調子って、応援したくなりました。
 書いている人が、書くことを楽しみながら書いていれば、それを読んだ人だって、楽しい気持ちになれるでしょう。
 楽しく書く。たとえその物語が悲劇であっても、激しい心の苦しみを描いたものであっても、小説家はみんな、楽しみながら書いているのではないかと推察します。
 正直に告白すると、私はそうです。
 思いっきり悲しい物語を書いているときでも「ああ、文章を書くって、楽しいな」と思いながら書いています。むずかしい推敲をしているときにもやっぱり「ことばとの格闘、楽しいな」って。

 本題に入ります。
 石村さんからの質問「小説とエッセイの違い」について。
 結論から書くと、違いはほとんどありません。あったとしても紙一重、つまり両者の違いは、一枚の紙の厚さほどしかない、ということです。
 ここで、私が長年、愛読している作家、村山由佳さんの文章を読んでみて下さい。

 旅から戻ってみたら、なんと、家族が増えていた。掌にのるほど小さな黒トラの子猫である。
 なんでも、時々うちの農場に手伝いに来る高校生の男の子たちが、部活を終えて自転車で帰る途中、道路の真ん中でふらふらしていたのを助けて持ってきたんだそうな。
 捨てられて間もなかったのか、やたらと甘えん坊のその子猫は、雷の晩に拾われたことから<雷太>と名付けられ、今では先輩猫たちとも仲良くなって、平気で馬たちの足元をちょこまかしている。見ているだけで幸せになっちゃうほど可愛いからいいのだけど、しかし、どこまで増える動物家族……(泣)。

 村山さんのエッセイ集『楽園のしっぽ』(文春文庫)に収録されている「自由であるということ」と題されたエッセイの冒頭です。
 ということは、言うまでもないことですが、これはエッセイです。
 まさに、書くことを楽しんで書いている人の文章ですね。たったこれだけの抜粋からも、楽しい気持ちが伝わってきませんか?

 つづけてもうひとつ、同じ作家の書いた、こんな文章を。

 「わ、ほんとだ、重い!」
 血の混じった粘液で全身が濡れているせいで、ぬるりと手が滑りそうになる。もっと深く抱え直すと、子馬の背中に鼻が付きそうになった。なまぐさいだろうと思っていたのに意外なほどさっぱりとした匂いで、両手の指には向こう側の肋骨が触れているのがわかる。ゴムでできているかのように柔らかいのは、まだ骨そのものが固まっていないせいだ。
 こんなに頼りない骨で、もう立ちあがろうとするなんて……。

 これは、村山さんが子馬の出産に立ちあったときのようすを描いているエッセイです。と、言いたいところですが、実はこの文章、エッセイではありません。
 長編小説『天翔ける』(講談社)からの引用です。
 この小説には「貴子」という女性と「まりも」という少女が登場します。
 彼女たちの名前が主語として出てくる箇所を読めば、「これは小説だ」と、明らかにわかります。
 これが、エッセイと小説の「紙一重の違い」です。
 最初に紹介した、黒猫との出会いを描いた文章だって、「これは小説だ」と思って読めば、小説の一節のようでもあります。
 作家は、エッセイを書くときにも小説を書くときにも、同じように渾身の力をこめて書き、いやになるほど徹底的に推敲しています。そういう意味では、書かれ方にも、労力にもなんら違いはない、と言えます。
 エッセイと小説の違いを、私なりに定義すれば、エッセイは「体験談」で、小説は「体験をもとにして創作したお話」です。
 共通しているのは「体験」です。
 これがあるかないかで、書かれた文章は大きく違ってきます。
 エッセイを書く上でも、小説を書く上でも、言ってしまえば、ありとあらゆる文章を書く上で、なくてはならない柱になっているのが体験なのです。
 村山さんは、高校生たちが拾ってきた猫を引き取る、という体験をなさっており、子馬の出産に立ちあうという体験もなさっている。
 だからこそ、エッセイであっても小説であっても、文章が生きているのです。
 生きて呼吸して躍動しているのです。

 ならば、体験していないことは生き生きとは書けないのか、というと、そんなことはありません。
 第3回の「理解していることばだけを使う」の章で、私は「理解=体験と想像」ではないだろうか、と、書いています。
 そうなのです。たとえ実際に体験したことがなくても、そのことを、まるで体験しているかのように想像することができれば、それもまた、エッセイなり小説なりの原動力となり得ます。
 想像力とは、体験に匹敵する力を持ち合わせているものだからです。
 だから石村さん、これからも「エッセイのような小説」を、自信を持って書きつづけていって下さい。小説のようなエッセイも、書いてみるといいかもしれません。
 書くことを大いに楽しみながら、ね。

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profile

  • 小手鞠るい

    小手鞠るい

    1956年岡山県生まれ。1993年『おとぎ話』が海燕新人文学賞を受賞。さらに2005年『欲しいのは、あなただけ 』(新潮文庫)で島清恋愛文学賞、原作を手がけた絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん 』(講談社)でボローニャ国際児童図書賞(09年)受賞。1992年に渡米、ニューヨーク州ウッドストック在住。主な作品に、『エンキョリレンアイ』『望月青果店』『思春期』『アップルソング』『優しいライオン やなせたかし先生からの贈り物』『星ちりばめたる旗』『きみの声を聞かせて』など。

今日の1さつ

表紙の絵やとちゅうの絵がかわいいのでレンちゃんや高田さんの気分になれて本の中の世界にすいこまれるのでドキドキハラハラしておもしろかったです。(9歳)

pickup

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